うたうように
主守
「…猪狩くん?」
はっとして顔を上げると、教壇に立っていたはずの教師が目の前に立っていた。仰ぎ見ると、気遣うような目でこちらを見ている視線とぶつかる。
そこでようやくボクは、今が授業中であり、古典の時間で、今の今まで教師の話を全く聞いていなかったということに気が付いた。
「猪狩くんがぼんやりしてるなんて珍しいわね。体調悪いの?大丈夫?」
「あ、いえ。大丈夫です、すみませんでした」
「そう、ならいいんだけど。じゃあ、今のところ、訳してくれる?」
「はい」
教壇に戻る教師の背中を見届けてから、教科書に視線を落とす。得意な古典だ。難しいことはない。
「“川の瀬の流れが速く、岩にせき止められた急流は分かれるが、二つに分かれてもまた一つに合流するように、今は別れ別れになっても、また逢うことができると信じている”」
「そうね、完璧な訳だわ。この歌は、崇徳院が詠んだもので…」
ふう、と息をついて、ボクはそそくさと板書の続きを始めた。続きといってもノートは真っ白で、今日はまだ何も書いていないということに気付く。あわててペンを走らせ、蛍光ペンで大切なところをマークする。
天才猪狩守が、野球のみの天才だと思ったらそれは大きな間違いである。僕は勉学も得意だ。だから、授業中はもちろん集中していなくてはならない。教師が口頭で言うことをさらさらと書き留め、ここはテストに出そうだと大きく赤で印をつけた。この教師は板書したところからはほとんどテストに出ないのが特徴だった。
あらかた書き終えて息をつく。ふっと窓の外を見ると文句のない晴天だった。雲はひとつもなく、能天気なほどに晴れ渡っている。まるであいつみたいだ。
中学ぶりに再会したあいつは、何も変わっていなかった。全国大会で見たあのときと同じように、このボクからなんなくヒットを打っていったのだった。相変わらずセコい当たりではあったけれど、あいつに打たれるまで完封していたボクにとってはそれだけで十分すぎるほどだった。
ああ、早く野球がしたい。血のにじむような練習も、吐くほどの特訓も、苦だと思ったことはない。努力は裏切らないということをボクはよく知っていた。練習をすればその分だけ、それは自分に返ってくる。それこそが、ボクが天才猪狩守という所以のすべてである。
次に会うとき、あいつは一体どんな顔でボクの前に立ちふさがってくるのだろう。必ずもう一度ボクの前に現れる、そんなある種の確信めいた自信があった。
敵であるにもかかわらず、どんな風に仕上げてくるのか楽しみに思う気持ちがいちばんに先立って、ボクはどうしようもない胸の高鳴りを隠せないでいた。こんな気持ちになるのはいつぶりだろう。ああ、早くマウンドに立ちたい。投げたい。マウンドで打者と対峙するあの瞬間、ボールがミットに収まる快感、空を切るバット…
「先ほどの歌についてですが」
はっと、我に返った。またしても、教師の話など全く聞いていないのだった。黒板の半分はもう消されていて、新しい文字がびっしりと並んでいた。慌ててペンを握りなおす。
「これは、たとえ今は邪魔が入って離れ離れとなっていても、後にはきっと一緒になろうとする強い決意の歌です。激情と力強い意志の中で恋心を歌っており…」
教師の言葉に、胸が跳ねた。一体何に反応したのか自分でもよく分からない。ごまかすように教科書を繰って、歌意の部分に目を落とした。
それを読んでいると、ボクはどうしようもなくドキドキしてしまっていてもたってもいられない気持ちになるのだった。どうしたというのだろう。今日のボクはなんだかおかしい。教師の言うとおり、体調が優れないのかもしれない。
おかしいと言えば、あいつに会ってからのボクはずっと変な感じのままなのである。胸の真ん中にもやもやとしたわだかまりがあるようで、急にあいつの顔が浮かんでは息苦しくなったりするし、ほうっておくと顔が熱くなって困った。一体ボクはどうしてしまったんだろう。
早く部活に行きたい。野球をしているときだけは、この正体不明のドキドキを忘れていられるのだった。
「では、今日はここまで。みなさん、来週の小テストでは良い点をとってくださいね」
手早く黒板を消した教師はそのように言ってにっこりと笑った。どうやら来週はテストがあるらしい。またも教師の話を全然聞いていなかったため、ボクはテスト範囲を聞き逃すというあり得ない失態をしてしまうのだった。
いろいろと諦めて窓の外を見ると、やっぱり外は完璧なまでの晴天で、空は澄みわたるように青かった。
さあ、授業は終わりだ。ボクはさっさと机の上を片づけると勢いよく席を立った。
――――――――
瀬をはやみ 岩にせかるる 滝川の われても末に あはむとぞ思ふ
掛詞が好きなうたでした
「…猪狩くん?」
はっとして顔を上げると、教壇に立っていたはずの教師が目の前に立っていた。仰ぎ見ると、気遣うような目でこちらを見ている視線とぶつかる。
そこでようやくボクは、今が授業中であり、古典の時間で、今の今まで教師の話を全く聞いていなかったということに気が付いた。
「猪狩くんがぼんやりしてるなんて珍しいわね。体調悪いの?大丈夫?」
「あ、いえ。大丈夫です、すみませんでした」
「そう、ならいいんだけど。じゃあ、今のところ、訳してくれる?」
「はい」
教壇に戻る教師の背中を見届けてから、教科書に視線を落とす。得意な古典だ。難しいことはない。
「“川の瀬の流れが速く、岩にせき止められた急流は分かれるが、二つに分かれてもまた一つに合流するように、今は別れ別れになっても、また逢うことができると信じている”」
「そうね、完璧な訳だわ。この歌は、崇徳院が詠んだもので…」
ふう、と息をついて、ボクはそそくさと板書の続きを始めた。続きといってもノートは真っ白で、今日はまだ何も書いていないということに気付く。あわててペンを走らせ、蛍光ペンで大切なところをマークする。
天才猪狩守が、野球のみの天才だと思ったらそれは大きな間違いである。僕は勉学も得意だ。だから、授業中はもちろん集中していなくてはならない。教師が口頭で言うことをさらさらと書き留め、ここはテストに出そうだと大きく赤で印をつけた。この教師は板書したところからはほとんどテストに出ないのが特徴だった。
あらかた書き終えて息をつく。ふっと窓の外を見ると文句のない晴天だった。雲はひとつもなく、能天気なほどに晴れ渡っている。まるであいつみたいだ。
中学ぶりに再会したあいつは、何も変わっていなかった。全国大会で見たあのときと同じように、このボクからなんなくヒットを打っていったのだった。相変わらずセコい当たりではあったけれど、あいつに打たれるまで完封していたボクにとってはそれだけで十分すぎるほどだった。
ああ、早く野球がしたい。血のにじむような練習も、吐くほどの特訓も、苦だと思ったことはない。努力は裏切らないということをボクはよく知っていた。練習をすればその分だけ、それは自分に返ってくる。それこそが、ボクが天才猪狩守という所以のすべてである。
次に会うとき、あいつは一体どんな顔でボクの前に立ちふさがってくるのだろう。必ずもう一度ボクの前に現れる、そんなある種の確信めいた自信があった。
敵であるにもかかわらず、どんな風に仕上げてくるのか楽しみに思う気持ちがいちばんに先立って、ボクはどうしようもない胸の高鳴りを隠せないでいた。こんな気持ちになるのはいつぶりだろう。ああ、早くマウンドに立ちたい。投げたい。マウンドで打者と対峙するあの瞬間、ボールがミットに収まる快感、空を切るバット…
「先ほどの歌についてですが」
はっと、我に返った。またしても、教師の話など全く聞いていないのだった。黒板の半分はもう消されていて、新しい文字がびっしりと並んでいた。慌ててペンを握りなおす。
「これは、たとえ今は邪魔が入って離れ離れとなっていても、後にはきっと一緒になろうとする強い決意の歌です。激情と力強い意志の中で恋心を歌っており…」
教師の言葉に、胸が跳ねた。一体何に反応したのか自分でもよく分からない。ごまかすように教科書を繰って、歌意の部分に目を落とした。
それを読んでいると、ボクはどうしようもなくドキドキしてしまっていてもたってもいられない気持ちになるのだった。どうしたというのだろう。今日のボクはなんだかおかしい。教師の言うとおり、体調が優れないのかもしれない。
おかしいと言えば、あいつに会ってからのボクはずっと変な感じのままなのである。胸の真ん中にもやもやとしたわだかまりがあるようで、急にあいつの顔が浮かんでは息苦しくなったりするし、ほうっておくと顔が熱くなって困った。一体ボクはどうしてしまったんだろう。
早く部活に行きたい。野球をしているときだけは、この正体不明のドキドキを忘れていられるのだった。
「では、今日はここまで。みなさん、来週の小テストでは良い点をとってくださいね」
手早く黒板を消した教師はそのように言ってにっこりと笑った。どうやら来週はテストがあるらしい。またも教師の話を全然聞いていなかったため、ボクはテスト範囲を聞き逃すというあり得ない失態をしてしまうのだった。
いろいろと諦めて窓の外を見ると、やっぱり外は完璧なまでの晴天で、空は澄みわたるように青かった。
さあ、授業は終わりだ。ボクはさっさと机の上を片づけると勢いよく席を立った。
――――――――
瀬をはやみ 岩にせかるる 滝川の われても末に あはむとぞ思ふ
掛詞が好きなうたでした
PR

