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息をする

「あれ、猪狩マスクしてる」
 あと少しで学校に着くというその道で、見知った顔と鉢合わせた。見たままを言っただけじゃないか。そう思ったが、こちらを見るその目からは確かに気遣いと心配の色が滲んでいて、ボクはむずがゆい気持ちになる。そういうことを知られたくなくて、答える声はわざとぶっきらぼうなものになった。
「ちょっと喉の調子が悪いだけだよ」
「病院は?」
 風邪を引いても平気な様子で部活動に参加しようとする人間にしては、大袈裟な物言いだ。お前は、人のことよりもまず自分の心配をしたらどうなんだ。なんとかは風邪を引かないと言うが、こいつは風邪を引くタイプのなんとかであることを知っている。
「病院に行かなくても、家にいる専属トレーナーと主治医が診てくれる」
「へええ」
 変な声を出したパワプロは、やっぱり猪狩の家ってすげーんだなーと間伸びした喋り方で言った。まあねと答えるボクの声はマスクの中でくぐもって、思わず咳払いをするのだった。

 そういう話をしたのが朝のことで、気が付けばあっという間に帰宅時刻である。今日の練習もいつもと違わずしっかりと身体を使うもので、マスクをしたままのそれはさすがにキツかった。布が一枚あるだけでこうも息苦しく、暑いとは。たまになら、いつもとは違ったトレーニングになるのかもしれない。汗だくのアンダーを着替えながら、いつもならばこのタイミングで私設球場での練習に誘うのだが、さすがに今日はそんな気分にはならなかった。パワプロも分かっているのか、黙って着替えている。こいつはユニフォームを脱いで、新しいユニフォームを着る。もう見慣れたものだ。
「猪狩、もう帰る?」
「ああ」
 部室を出るとパワプロが付いてきて、どうやら一緒に帰るつもりらしい。歩調を合わせて、並んで歩く。今日はなんだか疲れたし、特別なにかを話す気にもなれなくて、黙っていた。いつもは騒がしいパワプロも静かにしているから、夜とボクたちの間にはひっそりとした沈黙が下りる。半分に欠けた月の下、歩く夜道は風が気持ち良く、疲れた身体を優しく撫でていった。心地の良い静寂だった。
「じゃあ、また明日」
 たまに寄り道してキャッチボールをしていく公園も通り過ぎて、分かれ道の交差点に差し掛かったところでパワプロが言う。ボクが返事をして別方向に歩き出しても、パワプロはまだ、こちらを見ていた。思わず足を止めて、振り返る。
「なんだい。言いたいことがあるなら、ちゃんと言ってくれないか」
「いや。今日は猪狩の顔、見てないなと思って」
「なに言ってる。今も見てるじゃないか」
 言いながら、ああマスクのことかと思い付いたが、そう思ったときにはパワプロの顔がすぐそばにあった。マスクの不織布が、唇に押し付けられる感覚。もっと正確に言えば、布ごしにパワプロの唇が重ねられていた。繊維の隙間をすり抜けて届く吐息が熱くて、生々しくて、思わず後ずさろうと身を引くが、首の後ろに回された腕がそれを許さない。パワプロの手の平がうなじを這い、後ろ髪を撫でていく。押し当てられた唇が、小さく動いた。一枚隔てられているせいで、いつもは気にしない感触だとか温もりだとかが妙に鮮明で、ボクは身を震わせた。おそるおそる目を開けたときには、パワプロはもう離れている。
「顔見たいなって思ったら、したくなっちゃった」
 バカだなと言うことすら惜しくて、ボクはマスクを外して、その唇に直接、キスをした。





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タイトルなんも浮かば〜ん

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