世界のまんなかで
世界のまんなかで (7/巨人)
猪狩が泣いている。猪狩というのは、同期入団したチームメイトのことであり、落ちこぼれのオレとは違い、すでにエースナンバーを背負う器とも噂されている天才エリートの猪狩守のことである。そんな猪狩が泣いているところを、オレは見てしまった。
自信過剰ともいえる不遜な態度、高飛車で傲慢な物言い、しかし猪狩はそれらをぴしゃりと黙らせてしまうほどの実力と実績があった。それらは、猪狩の並々ならぬ努力の結果に過ぎないことにオレはこの頃気付きつつあった。
だから、練習が終わったあと、室内演習場で猪狩が一人で投げ込みしているのを見たオレは、別段なんとも思わなかったのだ。ああ、またやっているんだな。オレも一緒に、もう少し練習しようかな。投げ込みしている猪狩が、ぼろぼろと涙をこぼしていることに気が付かなければ、オレはそんな風に声を掛けていたに違いない。
忘れ物の携帯を取りに戻ったことも忘れて、オレはぼんやりしていた。明かりの漏れる室内演習場、オレが戸のすぐ近くに立っていることにも猪狩は気付かない。猪狩は、ただ真っ直ぐ前を見て、ボールを投げていた。溢れる涙を拭うこともしないで、それはある種の異様な光景にも見えた。
そのうち、投げるボールがなくなって、猪狩はその場に立ち尽くしていた。ネットに散乱するボールを拾うこともしないで、猪狩は黙って立っている。いつもは上を向いている猪狩の野球帽が、今日はなんだか下を向いて項垂れているように見える。おかげで、猪狩の表情は見えなかった。照らす照明、散らばるボールの中で猪狩は一人で立ち尽くしていた。まるで、世界の真ん中にぽっかりと一人浮かんでいるように。
思い返せば、今日の猪狩はずいぶんと機嫌が良かった。いつもはオレや矢部くんに嫌味しか言わない猪狩が、にこにこと自ら話しかけて来たのは不気味ですらあった。「ボクの弟が、入団して来るんだよ」、そう言った猪狩はやっぱり笑っていて、弟が自分と同じ巨人軍にやって来ることを心から喜んでいるようだった。なるほど、今日はドラフトの日であり、そして結果として猪狩の弟は巨人には入団しなかった。逆指名でオリックス・ブルーウェーブ入りを決めたことをテレビは放送していた。それを見ていた猪狩の表情は、今までに見たことのないものだった。しかし、そのあとの練習では、猪狩はすっかりいつも通りであったので、オレは弟の話などほとんど忘れてさえいたのだった。
そもそもオレは、弟どころか猪狩自身のことをよく知らない。相当な自信家であること、どうやら資産家の息子であるらしいこと、嫌味を言う割にはチームメイトに誘われたすき焼きパーティにちゃんと肉を持って来ること。オレが猪狩について知っているのはそのくらいのことで、家族のことなんて何一つ知らない。ただ、想像することは出来た。野球が好きな猪狩、猪狩と同じく野球をしている弟、兄弟揃ってプロ入りすることの意味。
戸の向こう、猪狩は一度だけ帽子を取り上げてかぶり直すと、今度は黙って散らばるボールを拾い始めた。どれだけ投げたらこんなことになるのか、改めて見るとボールは酷く散乱していた。その横顔からは、涙はもう見えなかった。
「よお、猪狩」
「…キミかい。なんだこんな時間に」
突然声を掛けても、猪狩はさして驚きもしなかった。いつもの猪狩のように、オレのことなんかちっとも構わないでボールの後片付けをしている。置き忘れた携帯を拾ったオレは、なんとなく猪狩の片付けを手伝うことにした。一瞬だけ意外そうな顔をしただけで、猪狩は何も言わなかった。鼻の頭はまだ赤くて、近くで見ると涙の跡がくっきり頬に残っていた。
猪狩が投げ込んでいたのは、ネットではなく、きっと弟の構えるミットだったのだろう。ボールを拾いながら、オレはそんなことを考えていた。
了
ーーーーーーー
7の兄弟関係がほんとうに好きなんだ
猪狩が泣いている。猪狩というのは、同期入団したチームメイトのことであり、落ちこぼれのオレとは違い、すでにエースナンバーを背負う器とも噂されている天才エリートの猪狩守のことである。そんな猪狩が泣いているところを、オレは見てしまった。
自信過剰ともいえる不遜な態度、高飛車で傲慢な物言い、しかし猪狩はそれらをぴしゃりと黙らせてしまうほどの実力と実績があった。それらは、猪狩の並々ならぬ努力の結果に過ぎないことにオレはこの頃気付きつつあった。
だから、練習が終わったあと、室内演習場で猪狩が一人で投げ込みしているのを見たオレは、別段なんとも思わなかったのだ。ああ、またやっているんだな。オレも一緒に、もう少し練習しようかな。投げ込みしている猪狩が、ぼろぼろと涙をこぼしていることに気が付かなければ、オレはそんな風に声を掛けていたに違いない。
忘れ物の携帯を取りに戻ったことも忘れて、オレはぼんやりしていた。明かりの漏れる室内演習場、オレが戸のすぐ近くに立っていることにも猪狩は気付かない。猪狩は、ただ真っ直ぐ前を見て、ボールを投げていた。溢れる涙を拭うこともしないで、それはある種の異様な光景にも見えた。
そのうち、投げるボールがなくなって、猪狩はその場に立ち尽くしていた。ネットに散乱するボールを拾うこともしないで、猪狩は黙って立っている。いつもは上を向いている猪狩の野球帽が、今日はなんだか下を向いて項垂れているように見える。おかげで、猪狩の表情は見えなかった。照らす照明、散らばるボールの中で猪狩は一人で立ち尽くしていた。まるで、世界の真ん中にぽっかりと一人浮かんでいるように。
思い返せば、今日の猪狩はずいぶんと機嫌が良かった。いつもはオレや矢部くんに嫌味しか言わない猪狩が、にこにこと自ら話しかけて来たのは不気味ですらあった。「ボクの弟が、入団して来るんだよ」、そう言った猪狩はやっぱり笑っていて、弟が自分と同じ巨人軍にやって来ることを心から喜んでいるようだった。なるほど、今日はドラフトの日であり、そして結果として猪狩の弟は巨人には入団しなかった。逆指名でオリックス・ブルーウェーブ入りを決めたことをテレビは放送していた。それを見ていた猪狩の表情は、今までに見たことのないものだった。しかし、そのあとの練習では、猪狩はすっかりいつも通りであったので、オレは弟の話などほとんど忘れてさえいたのだった。
そもそもオレは、弟どころか猪狩自身のことをよく知らない。相当な自信家であること、どうやら資産家の息子であるらしいこと、嫌味を言う割にはチームメイトに誘われたすき焼きパーティにちゃんと肉を持って来ること。オレが猪狩について知っているのはそのくらいのことで、家族のことなんて何一つ知らない。ただ、想像することは出来た。野球が好きな猪狩、猪狩と同じく野球をしている弟、兄弟揃ってプロ入りすることの意味。
戸の向こう、猪狩は一度だけ帽子を取り上げてかぶり直すと、今度は黙って散らばるボールを拾い始めた。どれだけ投げたらこんなことになるのか、改めて見るとボールは酷く散乱していた。その横顔からは、涙はもう見えなかった。
「よお、猪狩」
「…キミかい。なんだこんな時間に」
突然声を掛けても、猪狩はさして驚きもしなかった。いつもの猪狩のように、オレのことなんかちっとも構わないでボールの後片付けをしている。置き忘れた携帯を拾ったオレは、なんとなく猪狩の片付けを手伝うことにした。一瞬だけ意外そうな顔をしただけで、猪狩は何も言わなかった。鼻の頭はまだ赤くて、近くで見ると涙の跡がくっきり頬に残っていた。
猪狩が投げ込んでいたのは、ネットではなく、きっと弟の構えるミットだったのだろう。ボールを拾いながら、オレはそんなことを考えていた。
了
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7の兄弟関係がほんとうに好きなんだ
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