金木犀
金木犀(友沢亮)
自分がうんと幼かった頃、不安や不都合を感じたことがなかった。父と母がいて、そのうち朋恵と翔太が生まれ、家族仲はとても良かった。みんな笑っていて幸せだったが、ある日父親が蒸発していなくなった。自分が、中学生の時の話だ。
そうして高校に上がり、自分は相変わらず野球を続けていた。もともとプロ志望ではあったものの、それはもう夢というより実現すべき課題であった。自分は、プロ入りしなくてはならない。いなくなった父の代わりに、病床に伏す母に代わって、朋恵を、翔太を、家族を養って幸せにしなければならない。そう思うたび投げ込みの量もバイトのシフトも増えていったが、それは大変というよりはむしろ遣り甲斐が大きくなったと感じるばかりで、疲れた身体と裏腹に友沢は誇らしい気持ちであった。
そうした努力がようやく芽吹いて、友沢はプロ入り確実とまで言われるほどのピッチャーに成長した。嬉しかった。努力は身を結ぶということを自分の手で証明出来たことが、何より嬉しかった。それに比例するように、友沢の練習量はさらに増し続けた。肘が壊れて投げられなくなる、その瞬間まで。
蕾がいつか花開くように、努力は必ず実を結ぶ。そんなことは断じてなくて、花が開く前に友沢の芽は呆気なく摘み取られた。それでも、今日が終われば明日がやってくる。絶望しても失望しても泣いていたって腹は減った。友沢はまた、バットを持った。
そうして、血が滲むだの、泥水を啜るだの、月並みな表現の内の努力を以って、友沢はようやくプロ入りの切符を掴み取った。努力に裏切られた友沢は、さらなる努力を重ねた。だから、これでひとまずは安心だと思った気の緩みがいけなかったのかもしれない。プロ入りをしたその球団、チームメイト、もっと正確に言うなら先輩を、友沢は好きになった。
家族に抱くような好意とは全く異なるそれは、時に暴力的なまでに友沢の心を支配した。こんな気持ちは、知らない。知らなかったから、友沢は知っていることで補おうと試みた。幼少期より続けてきた努力という誠意でその人に対峙した。自分には、それしかなかった。だがそれもきっと、近い将来無駄になるのだろう。自分がどれだけ好意を寄せようと、その先輩が振り向いてくれることはありそうになかった。
困難が降りかかった時、壁に当たった時、友沢はいつだってさらなる努力を重ねることでそれを克服して来た。生きている限りそれは続くのだろう。そしてそれが報われない結果に終わることは、これから先もいくらでもあるにちがいない。そんな目にどれだけ遭おうとも、平気な顔をして通り過ぎていけば良いのだ。
そうしていつもの道をランニングしていた友沢の鼻をくすぐるのは、金木犀だった。父と公園でキャッチボールをした帰り道に、よく嗅いだ匂いだった。隣に父はいなくても、季節は巡り、今年も金木犀が咲いている。自分はこれからも生きていく。
嬉しいことも悲しいことも、時間がすべて連れて行ってくれるから。
了
ーーーーーーーーーー
すごく悲しい気持ちになったので、友沢くんに代弁してもらいました。ごめんね。
自分がうんと幼かった頃、不安や不都合を感じたことがなかった。父と母がいて、そのうち朋恵と翔太が生まれ、家族仲はとても良かった。みんな笑っていて幸せだったが、ある日父親が蒸発していなくなった。自分が、中学生の時の話だ。
そうして高校に上がり、自分は相変わらず野球を続けていた。もともとプロ志望ではあったものの、それはもう夢というより実現すべき課題であった。自分は、プロ入りしなくてはならない。いなくなった父の代わりに、病床に伏す母に代わって、朋恵を、翔太を、家族を養って幸せにしなければならない。そう思うたび投げ込みの量もバイトのシフトも増えていったが、それは大変というよりはむしろ遣り甲斐が大きくなったと感じるばかりで、疲れた身体と裏腹に友沢は誇らしい気持ちであった。
そうした努力がようやく芽吹いて、友沢はプロ入り確実とまで言われるほどのピッチャーに成長した。嬉しかった。努力は身を結ぶということを自分の手で証明出来たことが、何より嬉しかった。それに比例するように、友沢の練習量はさらに増し続けた。肘が壊れて投げられなくなる、その瞬間まで。
蕾がいつか花開くように、努力は必ず実を結ぶ。そんなことは断じてなくて、花が開く前に友沢の芽は呆気なく摘み取られた。それでも、今日が終われば明日がやってくる。絶望しても失望しても泣いていたって腹は減った。友沢はまた、バットを持った。
そうして、血が滲むだの、泥水を啜るだの、月並みな表現の内の努力を以って、友沢はようやくプロ入りの切符を掴み取った。努力に裏切られた友沢は、さらなる努力を重ねた。だから、これでひとまずは安心だと思った気の緩みがいけなかったのかもしれない。プロ入りをしたその球団、チームメイト、もっと正確に言うなら先輩を、友沢は好きになった。
家族に抱くような好意とは全く異なるそれは、時に暴力的なまでに友沢の心を支配した。こんな気持ちは、知らない。知らなかったから、友沢は知っていることで補おうと試みた。幼少期より続けてきた努力という誠意でその人に対峙した。自分には、それしかなかった。だがそれもきっと、近い将来無駄になるのだろう。自分がどれだけ好意を寄せようと、その先輩が振り向いてくれることはありそうになかった。
困難が降りかかった時、壁に当たった時、友沢はいつだってさらなる努力を重ねることでそれを克服して来た。生きている限りそれは続くのだろう。そしてそれが報われない結果に終わることは、これから先もいくらでもあるにちがいない。そんな目にどれだけ遭おうとも、平気な顔をして通り過ぎていけば良いのだ。
そうしていつもの道をランニングしていた友沢の鼻をくすぐるのは、金木犀だった。父と公園でキャッチボールをした帰り道に、よく嗅いだ匂いだった。隣に父はいなくても、季節は巡り、今年も金木犀が咲いている。自分はこれからも生きていく。
嬉しいことも悲しいことも、時間がすべて連れて行ってくれるから。
了
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すごく悲しい気持ちになったので、友沢くんに代弁してもらいました。ごめんね。
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