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静謐な夜の隙間に

忘れ物を取りに室内演習場まで戻ると、明かりが漏れていた。こんな時間に、一体誰だろう。当然ながら、練習時間はとうに終わっている。終わっているどころか、こんな夜更けに練習していることがコーチや監督にでもバレたら、大変なことになるのではないだろうか。戸の隙間から、オレは中を窺い見た。
 中にいたのは、猪狩であった。猪狩守。同期入団、しかしオレとは違って即座に一軍レギュラー入りしたエリートで、その上相当な自信家かつ嫌味なやつだった。そんな猪狩が、一心不乱に投げ込みをしていた。
 猪狩は普段から自分のことを「天才」と称するが、さすがに自称するだけのことはある、どうやらとんでもない練習量をこなして今のポジションを維持しているらしい。しかし、今夜のこれはどうやらそうではないような、滅茶苦茶な練習のように見えた。何かを会得するための投げ込みというよりは、ただ一心不乱に球を掴んでは力任せに投げているだけに見える。
 いつも見ている猪狩との違和感と、その気迫に満ちた横顔からオレはすっかり目が離せなくなってしまっていた。忘れた携帯を取りに来たことなんてすっかり忘れてしまって、オレはただ黙って目の前の猪狩を見ていた。
 少ししたところで、手元にボールがなくなった猪狩が投球動作を止める。しかし、散らばったボールを拾う仕草も、片付けを始める様子もない。猪狩は、散乱するボールの真ん中で突っ立っていた。やっぱり、何かがおかしい。思わず乗り出して戸に手を掛けようとしたところで、猪狩が俯く。なんだろう、そう思うのも束の間、猪狩の肩が静かに上下し始めて、こちらにまで聞こえるほどの声で嗚咽を漏らし始めるのだった。猪狩は、泣いていた。
 オレは、猪狩のことをよく知らない。相当な自信家であること、どうやら資産家の息子であるらしいこと、嫌味を言う割にはチームメイトに誘われたすき焼きパーティにちゃんと肉を持参してやって来ること。オレは、猪狩のことをそれくらいしか知らない。
 だから、猪狩がどうしてこんなことになっているのか、さっぱり分からなかった。涙を流す猪狩の姿。成人した男が、肩を震わせながら泣くことなど、そうそうないだろう。猪狩に、何があったのだろう。今日の日中だって、いつもの猪狩のままだった。オレと矢部くんが話しているところにわざわざ割り込んで来て、嫌味と自慢を言っていったが、そういえば妙に浮かれていた。聞いてもいないことを勝手に話していくのは猪狩の癖なのでオレはさして気にしなかったが、そういえば今日は、特別にお喋りだった。こわいくらいにご機嫌で、浮かれながらニコニコしていた。あの、猪狩が。
 そこまで考えて、オレはようやく猪狩の話を思い出していた。要するに、自分と同じ巨人軍に入団すると思っていた弟が、逆指名で別球団に行ったという話だ。そういえばあの時の猪狩は、最初から最後までおかしかった。オレはそれを聞くまで猪狩に弟がいたことも野球をしていたことも知らなかったから、ただ単純に驚いて、黙っていたのだけど。
 猪狩は、まだ泣いている。正確には俯いていてよく見えなかったが、たぶん泣いているんだろう。いつもは上向きに持ち上がっている帽子のつばまでしょんぼりしたように下を向いている。
 オレは、猪狩のことを知らない。猪狩の弟のことは、もっと知らない。だけど、もしかしたら、猪狩が投げ込むその先には、弟の姿があったのかもしれない。そんなことを勝手に想像しながら、オレは佇む猪狩を黙って見つめていた。


2020.5.13執筆
2020.6.6「世界のまんなかで」改題


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急に昔書いたやつを書き直したくなったので、書いた
言葉を並べて遊ぶのはたのしいな

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