欠落したバッドエンド
猪狩兄弟
病院のベッドに横たわる弟の顔を眺めて、今日で一週間になる。
先程まで一緒に見舞っていた父と母は先に帰ってしまった。自分も練習に戻らなくてはいけないが、足は病室に縫いとめられたまま動かない。
いよいよ夏の地方予選が始まる大切な時期だ。最後の夏。負ければそこで終わり、勝ってこそ次の一歩を進むことが許される。
何事もなかったかのように綺麗な顔で横たわっている弟の顔を眺める。これだけ見ていると、まるで昼寝でもしているようだ。トラックに轢かれ、ついこの間まで生死をさまよっていた人間の顔とは夢にも思えない。
夢。この一週間で、何度も頭を駆け巡った単語だ。自分は夢をみているのではないか、どうか夢であってほしい、幾度そのように願っただろう。
今まで生きてきて、こんな気持ちになったことはない。夢という言葉を、己の将来を語る以外の用途で使ったことがなかった。
何をするでもなく時間が過ぎていく。壁に掛けられた時計がカチカチと音を立て、座っている体勢を入れ替えると安っぽいパイプ椅子がぎいと鳴いた。
事故現場からいちばん近い病院がここだった。もっと設備の良い病院をと思うのだが、一命を取り留め意識の回復を待つだけとなった今、本人が目を覚まし次第転院する手筈となっていた。
思い返せば、弟の顔をここまでまじまじと眺めたのはこれが初めてだった。周囲の人間は、よく自分たち兄弟のことをそっくりだと言って形容するが、見れば見るほどにそうは思えなくて困惑を覚える。
よく見知った、進の顔だ。それ以上でもそれ以下でもない。
一瞬、弟の睫毛が震えたような気がして目を見張ったが、しばらくしても変化のない様子に、どうやら自分の吐き出した息のせいらしいと知る。
濃く透き通った紫は瞼の下に隠れたまま、この一週間一度も見ていない。
立ち上がり、パイプ椅子を畳んだ。
病室から出る前にもう一度だけ弟の顔を振り返り、ボクは約束をする。
言うまでもないことだった。それでもわざわざ口に出さずにはいられなかった自分の弱さを反省し、ボクはいよいよ病室を後にした。
+++
寝たふりをしようと思っていたわけではない。
目を開けて、一体何を言えばいいのか、どんな顔をすればいいのか分からなかった。
頭の上で、父と母がせわしなく会話を交わしている。父が「守」と言って呼びかけたので、そこに兄も一緒にいることを知った。家族が4人揃うことなど、一体いつ以来であろうか。ますますどうしたら良いのか分からない。
父と母がいる間、兄は一言も喋らなかった。
いちばん初めに目が覚めたのは、今日の深夜のことだ。
焼けるような胸の痛みと、節々を襲う鈍痛に自然と顔が歪んだ。一体何事だろうと起き上がりたいのに体を動かすことはできない。
意識を取り戻した当初、僕は軽いパニック状態であった。
動かない身体、エタノールの消毒の匂い、お世辞にも寝心地がいいとはいえないベッド。病院だった。トラックに撥ねられた瞬間を思い出して思わず目をつむる。視界がクリアになるにつれて、頭の中を取り巻いていた靄も徐々に晴れてくる。
僕はトラックに撥ねられて、この病院まで搬送されてきた。
そうして次に目が覚めたのは、日が傾き始めた夕方のことだった。カーテンの隙間から仄明るい夕日が差し込んでいた。先ほどまで深夜だったというのにもうこんな時間とは、どうやら自分は随分と眠っていたらしい。首だけ回して部屋の中を見渡す。机の上には花瓶が置いてあり、そこには一輪だけ花が活けてあった。花の名前は思い出せなかった。
何をするでもなく天井をぼんやりと眺める。
やはり体を動かすことはできず、何もしていないのにそこらじゅうが痛んだ。
瞬きをすると目じりの辺りを冷たいものが伝っていったが、痛みのせいではない。誰に何を言われなくても、野球ができないことは明白だった。完治するには随分時間がかかるだろう。野球ができるようになるまでには、もっと時間がかかることだろう。あるいはもう、一生そのようなことは叶わないのかもしれない。
まとまらない思考の中で、目の前に迫るトラックとクラクション、周囲の叫び声だけが頭の中を回った。必死の形相でこちらに駆け寄ろうとする兄の顔。何か叫んでいた。悲鳴が聞こえて、そこで記憶は途切れた。
3人が病室にやってきたのは、そんなことを考えている時だった。どうしようかと思っている間に、父と母は帰ってしまった。父が多忙なのは昔からであったし、母の体調は最近あまり芳しくない。外に出たのも久しぶりだったのではないだろうか。
兄だけが、病室にまだ残っているようであった。
時計の秒針がカチカチと進む音と、時折ぎいと鳴くそれはどうやらパイプ椅子の音らしい。それ以外は一切何の音も聞こえずに静かだった。兄は、ベッドの前にパイプ椅子を出してそこに腰かけているようだ。一体何をしているのだろうか。目を開けて確認する勇気はない。
やがて人の立ち上がる気配がして、ガチャガチャと金属音が鳴った。どうやら椅子を片づけて帰ることにしたらしい。とうとう兄は、この病室に訪れてから一言も口をきかなかった。
ガチャリとドアノブの回る音がして、自然と体の力が抜けるのが分かった。
兄の声が聞こえたのは、そのときだった。
必ず、優勝旗を持ち帰る。
パタリとドアの閉まる音。
ぱかりと目を開けて、ドアの方に視線を向ける。目の奥が熱く、喉は焼け付くようだった。頭の中はぐらぐらと煮えている。
そんなことは望んでいないと叫びたかった。
兄が何を思ってそのようなことを言ったのか胸中は知れないが、僕自身そんなことはこれっぽっちも望んでいないことだった。だって、そうだろう、優勝旗は持ってきてもらうものではない、自分の手で掴み取るものだ。
優勝旗を掴んで笑う兄を想像すると、どうしようもなく苦いものが胸の内に広がった。兄ならば、やってのけるだろう。優勝旗を持って、高らかに笑うのだろう。僕は、それを見ているのか。こんなところで、見ていなければならないのか。
ただ、野球がしたかった。兄の隣で、チームメイトの傍らで、野球がしたかった。
ただそれだけのことが今はもう随分と遠い。
僕は、野球がしたい。
ノックの音が聞こえたのは、そのときだった。
――――――――
5/9/ポケ1がごちゃまぜ
いつかマスクさんのお話をちゃんと書いてみたいの
病院のベッドに横たわる弟の顔を眺めて、今日で一週間になる。
先程まで一緒に見舞っていた父と母は先に帰ってしまった。自分も練習に戻らなくてはいけないが、足は病室に縫いとめられたまま動かない。
いよいよ夏の地方予選が始まる大切な時期だ。最後の夏。負ければそこで終わり、勝ってこそ次の一歩を進むことが許される。
何事もなかったかのように綺麗な顔で横たわっている弟の顔を眺める。これだけ見ていると、まるで昼寝でもしているようだ。トラックに轢かれ、ついこの間まで生死をさまよっていた人間の顔とは夢にも思えない。
夢。この一週間で、何度も頭を駆け巡った単語だ。自分は夢をみているのではないか、どうか夢であってほしい、幾度そのように願っただろう。
今まで生きてきて、こんな気持ちになったことはない。夢という言葉を、己の将来を語る以外の用途で使ったことがなかった。
何をするでもなく時間が過ぎていく。壁に掛けられた時計がカチカチと音を立て、座っている体勢を入れ替えると安っぽいパイプ椅子がぎいと鳴いた。
事故現場からいちばん近い病院がここだった。もっと設備の良い病院をと思うのだが、一命を取り留め意識の回復を待つだけとなった今、本人が目を覚まし次第転院する手筈となっていた。
思い返せば、弟の顔をここまでまじまじと眺めたのはこれが初めてだった。周囲の人間は、よく自分たち兄弟のことをそっくりだと言って形容するが、見れば見るほどにそうは思えなくて困惑を覚える。
よく見知った、進の顔だ。それ以上でもそれ以下でもない。
一瞬、弟の睫毛が震えたような気がして目を見張ったが、しばらくしても変化のない様子に、どうやら自分の吐き出した息のせいらしいと知る。
濃く透き通った紫は瞼の下に隠れたまま、この一週間一度も見ていない。
立ち上がり、パイプ椅子を畳んだ。
病室から出る前にもう一度だけ弟の顔を振り返り、ボクは約束をする。
言うまでもないことだった。それでもわざわざ口に出さずにはいられなかった自分の弱さを反省し、ボクはいよいよ病室を後にした。
+++
寝たふりをしようと思っていたわけではない。
目を開けて、一体何を言えばいいのか、どんな顔をすればいいのか分からなかった。
頭の上で、父と母がせわしなく会話を交わしている。父が「守」と言って呼びかけたので、そこに兄も一緒にいることを知った。家族が4人揃うことなど、一体いつ以来であろうか。ますますどうしたら良いのか分からない。
父と母がいる間、兄は一言も喋らなかった。
いちばん初めに目が覚めたのは、今日の深夜のことだ。
焼けるような胸の痛みと、節々を襲う鈍痛に自然と顔が歪んだ。一体何事だろうと起き上がりたいのに体を動かすことはできない。
意識を取り戻した当初、僕は軽いパニック状態であった。
動かない身体、エタノールの消毒の匂い、お世辞にも寝心地がいいとはいえないベッド。病院だった。トラックに撥ねられた瞬間を思い出して思わず目をつむる。視界がクリアになるにつれて、頭の中を取り巻いていた靄も徐々に晴れてくる。
僕はトラックに撥ねられて、この病院まで搬送されてきた。
そうして次に目が覚めたのは、日が傾き始めた夕方のことだった。カーテンの隙間から仄明るい夕日が差し込んでいた。先ほどまで深夜だったというのにもうこんな時間とは、どうやら自分は随分と眠っていたらしい。首だけ回して部屋の中を見渡す。机の上には花瓶が置いてあり、そこには一輪だけ花が活けてあった。花の名前は思い出せなかった。
何をするでもなく天井をぼんやりと眺める。
やはり体を動かすことはできず、何もしていないのにそこらじゅうが痛んだ。
瞬きをすると目じりの辺りを冷たいものが伝っていったが、痛みのせいではない。誰に何を言われなくても、野球ができないことは明白だった。完治するには随分時間がかかるだろう。野球ができるようになるまでには、もっと時間がかかることだろう。あるいはもう、一生そのようなことは叶わないのかもしれない。
まとまらない思考の中で、目の前に迫るトラックとクラクション、周囲の叫び声だけが頭の中を回った。必死の形相でこちらに駆け寄ろうとする兄の顔。何か叫んでいた。悲鳴が聞こえて、そこで記憶は途切れた。
3人が病室にやってきたのは、そんなことを考えている時だった。どうしようかと思っている間に、父と母は帰ってしまった。父が多忙なのは昔からであったし、母の体調は最近あまり芳しくない。外に出たのも久しぶりだったのではないだろうか。
兄だけが、病室にまだ残っているようであった。
時計の秒針がカチカチと進む音と、時折ぎいと鳴くそれはどうやらパイプ椅子の音らしい。それ以外は一切何の音も聞こえずに静かだった。兄は、ベッドの前にパイプ椅子を出してそこに腰かけているようだ。一体何をしているのだろうか。目を開けて確認する勇気はない。
やがて人の立ち上がる気配がして、ガチャガチャと金属音が鳴った。どうやら椅子を片づけて帰ることにしたらしい。とうとう兄は、この病室に訪れてから一言も口をきかなかった。
ガチャリとドアノブの回る音がして、自然と体の力が抜けるのが分かった。
兄の声が聞こえたのは、そのときだった。
必ず、優勝旗を持ち帰る。
パタリとドアの閉まる音。
ぱかりと目を開けて、ドアの方に視線を向ける。目の奥が熱く、喉は焼け付くようだった。頭の中はぐらぐらと煮えている。
そんなことは望んでいないと叫びたかった。
兄が何を思ってそのようなことを言ったのか胸中は知れないが、僕自身そんなことはこれっぽっちも望んでいないことだった。だって、そうだろう、優勝旗は持ってきてもらうものではない、自分の手で掴み取るものだ。
優勝旗を掴んで笑う兄を想像すると、どうしようもなく苦いものが胸の内に広がった。兄ならば、やってのけるだろう。優勝旗を持って、高らかに笑うのだろう。僕は、それを見ているのか。こんなところで、見ていなければならないのか。
ただ、野球がしたかった。兄の隣で、チームメイトの傍らで、野球がしたかった。
ただそれだけのことが今はもう随分と遠い。
僕は、野球がしたい。
ノックの音が聞こえたのは、そのときだった。
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5/9/ポケ1がごちゃまぜ
いつかマスクさんのお話をちゃんと書いてみたいの
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