アラート
猪狩兄弟
「兄さん、何か良いことでもあったんですか?」
声を掛けながらも、兄の機嫌が良い理由について本当はもうすでに知っていた。いつものように練習後のランニングを終えて帰ってきた兄は足取りが軽く、ともすれば鼻歌でも歌いだしそうなほど上機嫌だった。首から下げたタオルを触りながら兄はいつもの調子で言う。
「べつに、たいしたことじゃないけどね」
「パワプロさんに会ったんですか?」
冷蔵庫から取り出したスポーツドリンクを手渡しながらにっこりと尋ねる。差し出されたそれを受け取った兄は、さも驚いたように瞳を瞬いてから一口だけドリンクを飲んだ。どことなくばつが悪そうに視線を泳がせている。
「なんで進が知ってるんだ?」
「僕も今日パワプロさんに会ったんですよ」
一呼吸おいてから、へえ、それは偶然だなと適当な相槌を打って兄は知らん顔をしている。興味がなさそうなふりをしているが、本当は話の続きを聞きたくてうずうずしているのがすぐに分かった。わざと何も言わずにいると、結局は我慢できなかったらしい兄の方から口を開いた。
「それで?」
「それでって?」
「パワプロのやつは、何か言っていたか。あいつ、今日は僕と勝負もせずにすぐ帰ってしまったんだ」
全く、せっかくこの天才猪狩守と勝負ができるチャンスだというのに。ぶつぶつと言いながら今度は一気にスポーツドリンクを飲み干してしまった。ぷは、と息をつきながら再び僕に尋ねる。
「進は、どこで会ったんだ?」
「街中ですよ。あの、新しくゲームセンターができた辺り。ついでにそのまま一緒に遊んできたんです」
「…ゲームセンターで?」
「ええ」
兄は変な顔をしたまま固まっている。どうしてお前とパワプロがと今にも言い出しそうな雰囲気だ。そんな兄を尻目に僕は話を続けた。
「ふふ。勝負のつもりでお手合わせをお願いしたのに、結局は遊んでもらうだけになっちゃいました。パワプロさん、新しいゲームにも詳しくって」
「…ゲームセンターで遊んでいる暇があったら、練習したらどうだ」
「でも、この前は一緒にバッティングセンターに行きましたからね。今日のはちょっと息抜きですよ。今度会った時には、一緒に練習してもらえないかお願いしてみます」
兄さん、シャワーいきますよね?ポカンと呆けている兄に声を掛けて、空のペットボトルを受け取った。いまいち状況が飲み込めていないらしい兄は相変わらず変な顔をしている。あまりにも予想通り過ぎる反応に、僕は笑いを噛み殺すのに精いっぱいだった。
近頃の兄ときたら、パワプロさんの話ばかりする。道端でぶつかってきたやつと河原で勝負をしてきたなどというものだから、初めこそ一体何の事かと思ったものだ。兄が突拍子もないことをして周りに迷惑を掛けるのはいつものことだったので、僕はまたその類のことだと思って気を揉んでいた。僕が気を揉んでも兄の態度は変わらないのだが、こればっかりは仕方がない。昔からの癖みたいなものだ。
兄が特定の人物について話をするのは珍しいことだった。他人のことなど全く構わない兄が、野球にまつわることで誰かを注視しているという事実は僕にとっても興味深いことだった。一体どんな人間だろうと僕はずっと気にしていた。
そんな折、兄とのロードワーク中に出くわしたのが、その人だった。パワフル高校のパワプロさんというらしい。あのときの兄の様子は忘れない。初めに自転車でパワプロさんを轢いてしまったのは確かに自分だったが、兄ときたらわざわざ戻って来てパワプロさんを踏んづけていったのだ。踏まれたパワプロさんはもちろん怒っていたが、兄はこれ以上ないほど楽しそうに笑っていた。
他人に対してあんな風に笑う兄を、僕は見たことがない。おもちゃを見つけた子供のようでもあったし、気になる子をいじめる小学生のようでもあった。ああ、兄はこの人が好きなのだなと、僕はすぐに思った。
それからというもの、不思議なことにパワプロさんとはちょくちょく道端で出くわした。向こうもそのように言っていたから、何か不思議な縁でもあるのかもしれない。今日は進くんか、そのように言われる日もあったので、どうやら兄とも頻繁に出くわしているらしい。どうやらオレは君たち兄弟と変な縁があるらしいよ、とはパワプロさんの言である。
パワプロさんと兄がいつ会っているのかは、兄の様子を見ていれば一目瞭然だった。見てすぐ分かるほど兄は上機嫌だったし、いつも以上によくしゃべった。ただプライドの高い兄のこと、パワプロさんと会ったなどとは一言も言ったことがない。だから、僕も言わなかった。パワプロさんのことを話したのは、正真正銘今日が初めてのことだった。
刺さるような兄の視線を受けとめて、にこにこと微笑む。じっと僕の顔を見ていただけの兄が、耐えられなくなったのかぽつりと言葉を漏らした。
「よく、一緒にどこかへ行くのか」
「まあ、そうですね。パワプロさんっていろんなことに詳しいから、僕はいろいろ教えてもらってるんですよ」
兄は複雑そうな顔をして、何かを言いたそうにしては口をつぐんだ。この顔が見たかったはずなのに、僕の胸の内のもやもやは晴れるばかりか一向に募るばかりである。おかしな感じだ。
パワプロさんは、いい人だ。一緒にいて楽しいし、何度か時間を過ごして彼の人の好さというのは十分すぎるほど伝わってきた。だけど、と思う。兄が気に掛けるに値するほど、果たしてそこまで価値のある人だろうか。兄の気を惹く魅力とは、一体どこにあるのだろうか。兄があの人のどこをそんなに評価しているのか、僕にはまだ分からないのだった。
それと同時に、兄のような人にパワプロさんはもったいないとも思う。あんなにいい人を兄のわがままで振り回してしまうのは気の毒だと感じるのだ。
「兄さん、僕今日は先に休みますね」
まだ何か言いたそうな顔をしている兄を置いて、僕は踵を返して部屋へと戻った。
初めは、ただ単に二人が一緒にいるのが面白くなかった。兄に妬いているのか、パワプロさんに妬いているのか、今ではもう分からない。そもそも妬く必要などあるのだろうか。
後ろ手にドアを閉めて、僕はほんのひととき目を閉じた。
――――――――――――
5は守さんとの勝負はもちろんのこと、進くんとゲーセン行ったりバッセン行ったり河原までかけっこしたり
極めつけは「兄さんは、いつもパワプロさんのことを ぐふっ!」「弟よ、よけいなことは言わなくてもよろしい。」
兄弟と主人公の絡みがかわいい~ってことを書きたかったはずなのにこの進はとても性格が悪いですね。趣味ですね
「兄さん、何か良いことでもあったんですか?」
声を掛けながらも、兄の機嫌が良い理由について本当はもうすでに知っていた。いつものように練習後のランニングを終えて帰ってきた兄は足取りが軽く、ともすれば鼻歌でも歌いだしそうなほど上機嫌だった。首から下げたタオルを触りながら兄はいつもの調子で言う。
「べつに、たいしたことじゃないけどね」
「パワプロさんに会ったんですか?」
冷蔵庫から取り出したスポーツドリンクを手渡しながらにっこりと尋ねる。差し出されたそれを受け取った兄は、さも驚いたように瞳を瞬いてから一口だけドリンクを飲んだ。どことなくばつが悪そうに視線を泳がせている。
「なんで進が知ってるんだ?」
「僕も今日パワプロさんに会ったんですよ」
一呼吸おいてから、へえ、それは偶然だなと適当な相槌を打って兄は知らん顔をしている。興味がなさそうなふりをしているが、本当は話の続きを聞きたくてうずうずしているのがすぐに分かった。わざと何も言わずにいると、結局は我慢できなかったらしい兄の方から口を開いた。
「それで?」
「それでって?」
「パワプロのやつは、何か言っていたか。あいつ、今日は僕と勝負もせずにすぐ帰ってしまったんだ」
全く、せっかくこの天才猪狩守と勝負ができるチャンスだというのに。ぶつぶつと言いながら今度は一気にスポーツドリンクを飲み干してしまった。ぷは、と息をつきながら再び僕に尋ねる。
「進は、どこで会ったんだ?」
「街中ですよ。あの、新しくゲームセンターができた辺り。ついでにそのまま一緒に遊んできたんです」
「…ゲームセンターで?」
「ええ」
兄は変な顔をしたまま固まっている。どうしてお前とパワプロがと今にも言い出しそうな雰囲気だ。そんな兄を尻目に僕は話を続けた。
「ふふ。勝負のつもりでお手合わせをお願いしたのに、結局は遊んでもらうだけになっちゃいました。パワプロさん、新しいゲームにも詳しくって」
「…ゲームセンターで遊んでいる暇があったら、練習したらどうだ」
「でも、この前は一緒にバッティングセンターに行きましたからね。今日のはちょっと息抜きですよ。今度会った時には、一緒に練習してもらえないかお願いしてみます」
兄さん、シャワーいきますよね?ポカンと呆けている兄に声を掛けて、空のペットボトルを受け取った。いまいち状況が飲み込めていないらしい兄は相変わらず変な顔をしている。あまりにも予想通り過ぎる反応に、僕は笑いを噛み殺すのに精いっぱいだった。
近頃の兄ときたら、パワプロさんの話ばかりする。道端でぶつかってきたやつと河原で勝負をしてきたなどというものだから、初めこそ一体何の事かと思ったものだ。兄が突拍子もないことをして周りに迷惑を掛けるのはいつものことだったので、僕はまたその類のことだと思って気を揉んでいた。僕が気を揉んでも兄の態度は変わらないのだが、こればっかりは仕方がない。昔からの癖みたいなものだ。
兄が特定の人物について話をするのは珍しいことだった。他人のことなど全く構わない兄が、野球にまつわることで誰かを注視しているという事実は僕にとっても興味深いことだった。一体どんな人間だろうと僕はずっと気にしていた。
そんな折、兄とのロードワーク中に出くわしたのが、その人だった。パワフル高校のパワプロさんというらしい。あのときの兄の様子は忘れない。初めに自転車でパワプロさんを轢いてしまったのは確かに自分だったが、兄ときたらわざわざ戻って来てパワプロさんを踏んづけていったのだ。踏まれたパワプロさんはもちろん怒っていたが、兄はこれ以上ないほど楽しそうに笑っていた。
他人に対してあんな風に笑う兄を、僕は見たことがない。おもちゃを見つけた子供のようでもあったし、気になる子をいじめる小学生のようでもあった。ああ、兄はこの人が好きなのだなと、僕はすぐに思った。
それからというもの、不思議なことにパワプロさんとはちょくちょく道端で出くわした。向こうもそのように言っていたから、何か不思議な縁でもあるのかもしれない。今日は進くんか、そのように言われる日もあったので、どうやら兄とも頻繁に出くわしているらしい。どうやらオレは君たち兄弟と変な縁があるらしいよ、とはパワプロさんの言である。
パワプロさんと兄がいつ会っているのかは、兄の様子を見ていれば一目瞭然だった。見てすぐ分かるほど兄は上機嫌だったし、いつも以上によくしゃべった。ただプライドの高い兄のこと、パワプロさんと会ったなどとは一言も言ったことがない。だから、僕も言わなかった。パワプロさんのことを話したのは、正真正銘今日が初めてのことだった。
刺さるような兄の視線を受けとめて、にこにこと微笑む。じっと僕の顔を見ていただけの兄が、耐えられなくなったのかぽつりと言葉を漏らした。
「よく、一緒にどこかへ行くのか」
「まあ、そうですね。パワプロさんっていろんなことに詳しいから、僕はいろいろ教えてもらってるんですよ」
兄は複雑そうな顔をして、何かを言いたそうにしては口をつぐんだ。この顔が見たかったはずなのに、僕の胸の内のもやもやは晴れるばかりか一向に募るばかりである。おかしな感じだ。
パワプロさんは、いい人だ。一緒にいて楽しいし、何度か時間を過ごして彼の人の好さというのは十分すぎるほど伝わってきた。だけど、と思う。兄が気に掛けるに値するほど、果たしてそこまで価値のある人だろうか。兄の気を惹く魅力とは、一体どこにあるのだろうか。兄があの人のどこをそんなに評価しているのか、僕にはまだ分からないのだった。
それと同時に、兄のような人にパワプロさんはもったいないとも思う。あんなにいい人を兄のわがままで振り回してしまうのは気の毒だと感じるのだ。
「兄さん、僕今日は先に休みますね」
まだ何か言いたそうな顔をしている兄を置いて、僕は踵を返して部屋へと戻った。
初めは、ただ単に二人が一緒にいるのが面白くなかった。兄に妬いているのか、パワプロさんに妬いているのか、今ではもう分からない。そもそも妬く必要などあるのだろうか。
後ろ手にドアを閉めて、僕はほんのひととき目を閉じた。
――――――――――――
5は守さんとの勝負はもちろんのこと、進くんとゲーセン行ったりバッセン行ったり河原までかけっこしたり
極めつけは「兄さんは、いつもパワプロさんのことを ぐふっ!」「弟よ、よけいなことは言わなくてもよろしい。」
兄弟と主人公の絡みがかわいい~ってことを書きたかったはずなのにこの進はとても性格が悪いですね。趣味ですね
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結んだら開いて
主人公と進
「進くん、誕生日おめでとう!」
そう言ったパワプロさんはにっこり微笑むと手に持っていた包みを差し出した。受け取ったものの、唐突なそれにどう反応したらいいのか分からない。ぱちぱちと瞬きをして、にこにこしている彼と薄桃色の包みとを交互に見やった。手の平ほどの大きさのそれには、淡い桃色の包装紙に赤いリボンが巻かれていた。先端に凝った細工が施されているリボンが風に揺れる。
「あれ、今日って進くんの誕生日だよね?」
「え、ええ、そうです…ありがとうございます」
「この前急に言うからさー!分かってたらもっといいもの用意できたのに」
それは来年で勘弁な、そう言った彼はどこまでも屈託がなくほんの少しだけ照れくさそうに笑った。
手の中の包みに目を落とす。なんだろうとは思ったものの、見た目通りだとしたらきっと自分の予想は当たっていることだろう。
「食べれるものの方が嬉しいと思ってチョコにしたんだ~。なんかね、有名店の有名パティシエが作ったなんとかなんとかだって」
「ふふ、それじゃなんにも分かりませんよ」
「あはは、せっかく調べて買ってきたのに忘れちゃったよ。進くん、甘いもの好きって言ってたよね?」
「はい、大好きです」
ありがとうございますと改めて礼を述べると、パワプロさんは少しだけほっぺたを赤くして僕の髪をくしゃくしゃとかき混ぜた。照れたときに彼がするいつもの動作であった。くしゃくしゃと心まで撫でられたようにくすぐったくなる。彼からもらえる誕生日プレゼントはもちろん心から嬉しかったが、今回はそれよりももっと嬉しいことがあった。
「ねえパワプロさん、今日って何の日か知ってます?」
「え?だから進くんの誕生日だろ?」
首を捻っているパワプロさんには本当に何の日か分かっていないようだった。その様子を見ていると自然と頬が緩む。
今日は2月14日、確かに、僕の生まれた日だ。誕生日で間違っていない。
だけど、それ以上にもっと大切なイベントが世間では行われているはずなのだ。
「パワプロさん、本当にありがとうございました」
「いいよいいよ、そんな改まらなくて」
「返事はもちろんオーケーですから、来月のお返しを楽しみにしていてくださいね」
「へ?来月?」
未だ要領を得ない様子のパワプロさんに、僕は満面の笑みで返答をする。
今日はバレンタインデーの日だ。そして僕の誕生日。
もらったからには、お返しをするのが当然であろう。パワプロさんの好意に応えるのが僕の義務である。
「お返しなんて気にしなくていいのに、進くんはほんと真面目だなあ」
やっぱりなんにも分かっていないらしい様子の彼が愛おしく、僕はもらった包みを両手で抱えなおす。
そのときは100倍でお返ししますから、どうか覚悟しておいてくださいね。
――――――――――――――――――
進くんお誕生日おめでとう!
ハッピーバースデイバレンタインでかわいすぎますでしょ主進
誕生日を言うと絶対「バレンタインだね」と言われてきた進にとって誕生日>バレンタインなのはとっても嬉しかっただろうな、という妄想
「進くん、誕生日おめでとう!」
そう言ったパワプロさんはにっこり微笑むと手に持っていた包みを差し出した。受け取ったものの、唐突なそれにどう反応したらいいのか分からない。ぱちぱちと瞬きをして、にこにこしている彼と薄桃色の包みとを交互に見やった。手の平ほどの大きさのそれには、淡い桃色の包装紙に赤いリボンが巻かれていた。先端に凝った細工が施されているリボンが風に揺れる。
「あれ、今日って進くんの誕生日だよね?」
「え、ええ、そうです…ありがとうございます」
「この前急に言うからさー!分かってたらもっといいもの用意できたのに」
それは来年で勘弁な、そう言った彼はどこまでも屈託がなくほんの少しだけ照れくさそうに笑った。
手の中の包みに目を落とす。なんだろうとは思ったものの、見た目通りだとしたらきっと自分の予想は当たっていることだろう。
「食べれるものの方が嬉しいと思ってチョコにしたんだ~。なんかね、有名店の有名パティシエが作ったなんとかなんとかだって」
「ふふ、それじゃなんにも分かりませんよ」
「あはは、せっかく調べて買ってきたのに忘れちゃったよ。進くん、甘いもの好きって言ってたよね?」
「はい、大好きです」
ありがとうございますと改めて礼を述べると、パワプロさんは少しだけほっぺたを赤くして僕の髪をくしゃくしゃとかき混ぜた。照れたときに彼がするいつもの動作であった。くしゃくしゃと心まで撫でられたようにくすぐったくなる。彼からもらえる誕生日プレゼントはもちろん心から嬉しかったが、今回はそれよりももっと嬉しいことがあった。
「ねえパワプロさん、今日って何の日か知ってます?」
「え?だから進くんの誕生日だろ?」
首を捻っているパワプロさんには本当に何の日か分かっていないようだった。その様子を見ていると自然と頬が緩む。
今日は2月14日、確かに、僕の生まれた日だ。誕生日で間違っていない。
だけど、それ以上にもっと大切なイベントが世間では行われているはずなのだ。
「パワプロさん、本当にありがとうございました」
「いいよいいよ、そんな改まらなくて」
「返事はもちろんオーケーですから、来月のお返しを楽しみにしていてくださいね」
「へ?来月?」
未だ要領を得ない様子のパワプロさんに、僕は満面の笑みで返答をする。
今日はバレンタインデーの日だ。そして僕の誕生日。
もらったからには、お返しをするのが当然であろう。パワプロさんの好意に応えるのが僕の義務である。
「お返しなんて気にしなくていいのに、進くんはほんと真面目だなあ」
やっぱりなんにも分かっていないらしい様子の彼が愛おしく、僕はもらった包みを両手で抱えなおす。
そのときは100倍でお返ししますから、どうか覚悟しておいてくださいね。
――――――――――――――――――
進くんお誕生日おめでとう!
ハッピーバースデイバレンタインでかわいすぎますでしょ主進
誕生日を言うと絶対「バレンタインだね」と言われてきた進にとって誕生日>バレンタインなのはとっても嬉しかっただろうな、という妄想
ひとつの結末
ポケ7/ スポーツドクター進と高校生の主人公
キャッチボールしませんか?
おそらく断られるだろうと思って言ってみたのだが、意外なことにも返事はオーケーだった。たまにはいいかもね、笑った猪狩さんはなんだかいつもより楽しそうに見えた。
「だけどボク、グラブもなにも持ってないけど」
「あ、もちろんオレの貸しますから」
野球道具が一式入っている鞄をごそごそと漁る。部員のみんなには野球バカだと言ってからかわれるのだが、オレはどこでもキャッチボールができるようにいつもグラブを2つ持ち歩いているのだった。もちろん今日だって例外ではない。
言うと、猪狩さんは目をくりくりさせた後にくすりと笑った。キミは本当に野球が好きなんだね。
柔らかい日差しが心地良い午後のひととき。特に目的もなく住宅街をぶらぶらと歩いていたところ、また猪狩さんと出くわしたのだった。猪狩さんとここでばったり出会うのもこれで何度目かになる。この辺りに何か用事でもあるのだろうか。挨拶もそこそこに身体の調子を尋ねてくる様子は相変わらずで、いつもと変わらぬ仕事熱心ぶりにオレは笑った。
だって、この前なんて会って早々いきなり上着を脱がされたのだ。あれには面を食らったが、どうやら彼は夢中になると周りが見えなくなることもしばしばらしかった。
「キャッチボール、どこでやります?」
「そうだな…ここからなら河原が近いんじゃないか?」
意外なことに結構乗り気らしい猪狩さんは自分から提案すると、先頭を切って歩き出した。大人しく彼に従って後ろをついていく。ひょろりとしていて細身だが、猪狩さんは結構背が高い。自分よりも少し高い位置にある頭を眺めながら、オレももっと背を伸ばそうと心に決めた。自分よりも背の高い人を見るとどうしても羨ましくなってしまう。成長期なのだから焦らなくてもこれから伸びるだろうと周りには言われるが、オレは早く身長が欲しかったし、大きな体になってもっと野球が上手くなりたかった。
猪狩さんの結び髪がひょこりと揺れる。
「後ろを歩かれるとなんか気になるな。隣に来てよ」
「あ、ああすいません…猪狩さんって意外と背が高いですよね」
「意外とは余計だけど…パワプロくんは、これからが伸びる時期だよ」
「そうだといいんですけどね」
「成長期だからな。そのためには健康的な食事をとって、よく運動してよく寝ること。休むことっていうのは、キミが思っているよりもとても大切なことなんだよ」
話しているうちに視界が開けて、いつの間にか河原についていた。この近道は今まで通ったことがなかったので、これからはこの道を使ってみようと思う。どうやら猪狩さんはこの辺りのことにかなり詳しいらしい。
「じゃあさっそく始めようか」
「どうぞ、これ使ってください」
「ありがとう」
グラブを受け取った猪狩さんは早速左手にはめると、感触を確かめるように2、3度開いたり閉じたりを繰り返した。
「よく手入れがしてあるね」
「グラブをいじってる時間が好きで」
ボールをぽいと渡して距離をとる。どうぞと大きく手を振って合図をすると、猪狩さんは緩やかな動作でボールを放った。それはしっかりとグラブに収まって、オレはボールをつかむと猪狩さんのしたようにゆっくりと振りかぶって返球をする。やっぱりキャッチボールは楽しいし、野球はとても楽しい。見ていると猪狩さんも楽しんでいるようだった。朗らかに笑うその顔からは、どこか張り詰めているいつもの空気は微塵も感じられない。
「そういえば、パワプロくんは投手だったね」
「あ、覚えててくれたんですね」
「もちろん」
「この前はゴムチューブありがとうございました、使ってます」
「それは良かった」
和やかな会話を繰り返しながらしばらくキャッチボールを続けていたが、猪狩さんは急にその手をとめるとにやりと笑った。
「パワプロくん。ボクが座るから、ちょっと投げてみてよ」
「ええ?」
「肩はあったまっただろう?」
「そりゃあ、まあ」
「この前はモーションだけだったけど、今日は実際に見れるからね」
この前指摘したフォームが直っているかどうか見させてよ。そう言った猪狩さんはボールを投げ返すと、こちらの返事もきかずに座ってしまった。仕事熱心なところは変わらないらしい。
いそいそとボールを待つその様子にオレは確信をする。猪狩さんは、やっぱり野球が大好きなのだ。キャッチボールをしていて、オレはすぐに思った。ボールに気持ちが乗っている。
「防具もなにもないし、本気では投げないでくれよ」
「分かってますよ」
座った猪狩さんは悪戯っぽく笑う。猪狩さんの構えたミットのど真ん中、オレは振りかぶってストレートを放った。ボールは小気味の良い音でミットに収まり、ナイスピッチという声と共に返球される。その一連の動作を見て、オレは少なからず驚いていた。
「猪狩さん、野球部だったって言ってましたけど、キャッチャーだったんですね」
「どうしてそう思うんだい」
「どうしてって、だって、普通ボールがミットに収まったときそんないい音しないですよ。キャッチングが上手すぎます」
「はは、そんなに褒められるとはね」
再び猪狩さんがミットを構える。今度は外角低めいっぱい、ここに投げろと要求しているのだ。ぐ、と構えられたミットを見る。猪狩さんはもう笑っていなかった。
要求されるまま、オレは何球もボールを投げた。そのたびにボールは気持ちよくミットに吸い込まれ、オレはいつしか夢中で投げていた。猪狩さんは一度もこぼさなかった。
「ふう。パワプロくん、いいボール投げるね。だけど、やっぱりまだひじの位置が下がるときがあるから、それを意識して」
「分かりました」
「それと、ボクは確かにキャッチャーをしていたこともあるけどね。ボクはキミと同じピッチャーだったよ」
「そうなんですか?」
猪狩さんが嘘をつくとも思えないし(そもそも嘘をつくメリットが見当たらない)、こんなにキャッチングが上手いというのに彼はピッチャーだったらしい。
一瞬、キャッチャーから転向した理由を尋ねようとも思ったが、やめた。きっと何か事情があったのだろう。
「キミの決め球はなんだい?」
「まだ模索中ですけど…一応、スライダーです」
「そうか、スライダーか」
再び猪狩さんが座ってミットを広げる。どうやらスライダーを投げろという意味らしい。要求されたまま、オレはスライダーを放った。当然のように捕球した猪狩さんは、少しだけ考える顔をしてからオレに言った。
「パワプロくん。今のがキミのスライダー?」
「はい」
「するどく変化したな」
「えっ?そういえば、ちょっとにぎりを変えてみたんだっけ」
「ひょっとしたら、もっといい変化球になるかもしれない」
ただ、身体の負担が増えるから、変化球を磨くのはもう少し後になってからだな。そう言った猪狩さんは立ち上がってこちらに歩いてくると、オレの掌にボールを握らせた。もう少ししたらアドバイスしてあげようとも言ってくれた。
「実は、ボクの決め球もスライダーだったんだ」
「へえ!そうなんですか」
「懐かしいな」
猪狩さんはグラブを見つめたまま言ったが、その目はグラブではなくどこか遠い違うものを見ていた。昔を懐かしむその顔は幸せそうでもありどこか寂しそうで、猪狩さんの今までの人生を彷彿とさせる。彼がスポーツドクターという道に進むことになったきっかけを、オレはほとんどなにも知らない。
「ねえ猪狩さん。オレ、猪狩さんの投げるとこ見たいです」
「見たってなんにもおもしろくないぞ」
「べつにスライダー投げろなんて言いませんから、ちょっとだけ。ね、オレ座りますから」
猪狩さんの手にボールを握らせると、オレは返事も聞かずに走って距離をとった。勝手に座ってミットを開く。猪狩さんは困った顔で立ちすくんでいたが、やれやれと言った表情で最後には折れてくれた。
「一球だけだよ。それに、もう長いこと投げていないから、ひどいものだよ」
「大丈夫です」
仕方がないな、と言った猪狩さんは掌でボールを弄ぶと、マウンドを慣らすように足を動かした。きっとあれが彼の癖なのだろうなとオレは思った。一球だけだよと、彼はもう一度念を押した。力強く頷いて、オレはミットを前に出す。
猪狩さんが大きく振りかぶる。あ、と思った時には、ボールはもうミットに収まっていた。ひどいものなどと言っていたが、とんでもない。オレのような腕前でもボールはきっちりミットに入り、一目でそれと分かった。彼は、今でも投球練習をしている。
「トルネード投法、ですか」
「ちょっと珍しいかな」
「珍しい、ですし、なにより猪狩さんがこのフォームで投げるなんて思いもしませんでした」
猪狩さんとトルネード投法、どう頑張ってもオレの頭では結びつくことのない意外な組み合わせだ。
大きく振りかぶる腕からボールを放つトルネード投法は、投手が一度大きく打者に背中を見せるのが特徴だ。独特のフォームで投げるそれは球速、球威共に増すが、同時に体全体を大きく使って投げるため、体の軸や目線がぶれやすい。大きなモーションは当然身体に負担をかけるため、強靭な下半身と高いバランス感覚がなければ絶対に投げられないものだった。
「猪狩さん、ほんとにピッチャーだったんですね」
「ほんとにってなんだい」
からからと笑っている猪狩さんは、なんだか今までと別人のように思えた。今ここにいる猪狩さんは野球が大好きで、ただ純粋に目の前の事柄を楽しんでいる様子は幼い少年のようでもあった。
快活そうに笑い、額からきらりと一筋汗が伝う。
「ああ、暑いな。タオルもなにも持ってきてないや」
「あ、オレ予備がありますから」
タオルを差し出すと、ほんとうに準備がいいなと言いながら猪狩さんは受け取った。
ありがとうと改まって礼を言われ、若干たじろぐ。気にせず使ってくださいと言うと、猪狩さんは眼鏡を外して額の汗をぬぐった。眼鏡を外した顔はさらに若々しく見えた。
「猪狩さん、眼鏡を外すと印象変わりますよね」
「そうかい?」
「普段はコンタクトにしたらいいのに。きっとモテモテですよ」
「ははは」
顔に何かつけてるのが落ち着くんだよ。そう言った猪狩さんにオレは首をかしげる。
「眼鏡以外に、顔につけるものなんてあります?」
「そうだな…」
例えば、マスクとかね。ああでも、パワプロくんには似合わないかな。
そう言った猪狩さんは、今日いちばんの顔で笑った。
その意味をオレは解さなかったが、もう少しだけキャッチボールをしようと提案されたので、オレは喜んで賛成した。
こんないい天気の日には、やっぱり野球をするに限るのだ。
いきますよ、振りかぶったボールは、太陽の光の下できらきらと瞬いていた。
―――――――――――――
妄想大爆発で辛抱たまらず
この世界の進は兄さんのことが大嫌いなようなのでそういうのを表現したかったのですが、気づけばこんなことに
マスクさんのことが好きすぎてトキメキダッシュ
ポケ7進の一人称「ボク」に無限の可能性
トルネードはググりました。ウィキさんありがとう
いつかマスクさんについて本気で書きたいです書きます
キャッチボールしませんか?
おそらく断られるだろうと思って言ってみたのだが、意外なことにも返事はオーケーだった。たまにはいいかもね、笑った猪狩さんはなんだかいつもより楽しそうに見えた。
「だけどボク、グラブもなにも持ってないけど」
「あ、もちろんオレの貸しますから」
野球道具が一式入っている鞄をごそごそと漁る。部員のみんなには野球バカだと言ってからかわれるのだが、オレはどこでもキャッチボールができるようにいつもグラブを2つ持ち歩いているのだった。もちろん今日だって例外ではない。
言うと、猪狩さんは目をくりくりさせた後にくすりと笑った。キミは本当に野球が好きなんだね。
柔らかい日差しが心地良い午後のひととき。特に目的もなく住宅街をぶらぶらと歩いていたところ、また猪狩さんと出くわしたのだった。猪狩さんとここでばったり出会うのもこれで何度目かになる。この辺りに何か用事でもあるのだろうか。挨拶もそこそこに身体の調子を尋ねてくる様子は相変わらずで、いつもと変わらぬ仕事熱心ぶりにオレは笑った。
だって、この前なんて会って早々いきなり上着を脱がされたのだ。あれには面を食らったが、どうやら彼は夢中になると周りが見えなくなることもしばしばらしかった。
「キャッチボール、どこでやります?」
「そうだな…ここからなら河原が近いんじゃないか?」
意外なことに結構乗り気らしい猪狩さんは自分から提案すると、先頭を切って歩き出した。大人しく彼に従って後ろをついていく。ひょろりとしていて細身だが、猪狩さんは結構背が高い。自分よりも少し高い位置にある頭を眺めながら、オレももっと背を伸ばそうと心に決めた。自分よりも背の高い人を見るとどうしても羨ましくなってしまう。成長期なのだから焦らなくてもこれから伸びるだろうと周りには言われるが、オレは早く身長が欲しかったし、大きな体になってもっと野球が上手くなりたかった。
猪狩さんの結び髪がひょこりと揺れる。
「後ろを歩かれるとなんか気になるな。隣に来てよ」
「あ、ああすいません…猪狩さんって意外と背が高いですよね」
「意外とは余計だけど…パワプロくんは、これからが伸びる時期だよ」
「そうだといいんですけどね」
「成長期だからな。そのためには健康的な食事をとって、よく運動してよく寝ること。休むことっていうのは、キミが思っているよりもとても大切なことなんだよ」
話しているうちに視界が開けて、いつの間にか河原についていた。この近道は今まで通ったことがなかったので、これからはこの道を使ってみようと思う。どうやら猪狩さんはこの辺りのことにかなり詳しいらしい。
「じゃあさっそく始めようか」
「どうぞ、これ使ってください」
「ありがとう」
グラブを受け取った猪狩さんは早速左手にはめると、感触を確かめるように2、3度開いたり閉じたりを繰り返した。
「よく手入れがしてあるね」
「グラブをいじってる時間が好きで」
ボールをぽいと渡して距離をとる。どうぞと大きく手を振って合図をすると、猪狩さんは緩やかな動作でボールを放った。それはしっかりとグラブに収まって、オレはボールをつかむと猪狩さんのしたようにゆっくりと振りかぶって返球をする。やっぱりキャッチボールは楽しいし、野球はとても楽しい。見ていると猪狩さんも楽しんでいるようだった。朗らかに笑うその顔からは、どこか張り詰めているいつもの空気は微塵も感じられない。
「そういえば、パワプロくんは投手だったね」
「あ、覚えててくれたんですね」
「もちろん」
「この前はゴムチューブありがとうございました、使ってます」
「それは良かった」
和やかな会話を繰り返しながらしばらくキャッチボールを続けていたが、猪狩さんは急にその手をとめるとにやりと笑った。
「パワプロくん。ボクが座るから、ちょっと投げてみてよ」
「ええ?」
「肩はあったまっただろう?」
「そりゃあ、まあ」
「この前はモーションだけだったけど、今日は実際に見れるからね」
この前指摘したフォームが直っているかどうか見させてよ。そう言った猪狩さんはボールを投げ返すと、こちらの返事もきかずに座ってしまった。仕事熱心なところは変わらないらしい。
いそいそとボールを待つその様子にオレは確信をする。猪狩さんは、やっぱり野球が大好きなのだ。キャッチボールをしていて、オレはすぐに思った。ボールに気持ちが乗っている。
「防具もなにもないし、本気では投げないでくれよ」
「分かってますよ」
座った猪狩さんは悪戯っぽく笑う。猪狩さんの構えたミットのど真ん中、オレは振りかぶってストレートを放った。ボールは小気味の良い音でミットに収まり、ナイスピッチという声と共に返球される。その一連の動作を見て、オレは少なからず驚いていた。
「猪狩さん、野球部だったって言ってましたけど、キャッチャーだったんですね」
「どうしてそう思うんだい」
「どうしてって、だって、普通ボールがミットに収まったときそんないい音しないですよ。キャッチングが上手すぎます」
「はは、そんなに褒められるとはね」
再び猪狩さんがミットを構える。今度は外角低めいっぱい、ここに投げろと要求しているのだ。ぐ、と構えられたミットを見る。猪狩さんはもう笑っていなかった。
要求されるまま、オレは何球もボールを投げた。そのたびにボールは気持ちよくミットに吸い込まれ、オレはいつしか夢中で投げていた。猪狩さんは一度もこぼさなかった。
「ふう。パワプロくん、いいボール投げるね。だけど、やっぱりまだひじの位置が下がるときがあるから、それを意識して」
「分かりました」
「それと、ボクは確かにキャッチャーをしていたこともあるけどね。ボクはキミと同じピッチャーだったよ」
「そうなんですか?」
猪狩さんが嘘をつくとも思えないし(そもそも嘘をつくメリットが見当たらない)、こんなにキャッチングが上手いというのに彼はピッチャーだったらしい。
一瞬、キャッチャーから転向した理由を尋ねようとも思ったが、やめた。きっと何か事情があったのだろう。
「キミの決め球はなんだい?」
「まだ模索中ですけど…一応、スライダーです」
「そうか、スライダーか」
再び猪狩さんが座ってミットを広げる。どうやらスライダーを投げろという意味らしい。要求されたまま、オレはスライダーを放った。当然のように捕球した猪狩さんは、少しだけ考える顔をしてからオレに言った。
「パワプロくん。今のがキミのスライダー?」
「はい」
「するどく変化したな」
「えっ?そういえば、ちょっとにぎりを変えてみたんだっけ」
「ひょっとしたら、もっといい変化球になるかもしれない」
ただ、身体の負担が増えるから、変化球を磨くのはもう少し後になってからだな。そう言った猪狩さんは立ち上がってこちらに歩いてくると、オレの掌にボールを握らせた。もう少ししたらアドバイスしてあげようとも言ってくれた。
「実は、ボクの決め球もスライダーだったんだ」
「へえ!そうなんですか」
「懐かしいな」
猪狩さんはグラブを見つめたまま言ったが、その目はグラブではなくどこか遠い違うものを見ていた。昔を懐かしむその顔は幸せそうでもありどこか寂しそうで、猪狩さんの今までの人生を彷彿とさせる。彼がスポーツドクターという道に進むことになったきっかけを、オレはほとんどなにも知らない。
「ねえ猪狩さん。オレ、猪狩さんの投げるとこ見たいです」
「見たってなんにもおもしろくないぞ」
「べつにスライダー投げろなんて言いませんから、ちょっとだけ。ね、オレ座りますから」
猪狩さんの手にボールを握らせると、オレは返事も聞かずに走って距離をとった。勝手に座ってミットを開く。猪狩さんは困った顔で立ちすくんでいたが、やれやれと言った表情で最後には折れてくれた。
「一球だけだよ。それに、もう長いこと投げていないから、ひどいものだよ」
「大丈夫です」
仕方がないな、と言った猪狩さんは掌でボールを弄ぶと、マウンドを慣らすように足を動かした。きっとあれが彼の癖なのだろうなとオレは思った。一球だけだよと、彼はもう一度念を押した。力強く頷いて、オレはミットを前に出す。
猪狩さんが大きく振りかぶる。あ、と思った時には、ボールはもうミットに収まっていた。ひどいものなどと言っていたが、とんでもない。オレのような腕前でもボールはきっちりミットに入り、一目でそれと分かった。彼は、今でも投球練習をしている。
「トルネード投法、ですか」
「ちょっと珍しいかな」
「珍しい、ですし、なにより猪狩さんがこのフォームで投げるなんて思いもしませんでした」
猪狩さんとトルネード投法、どう頑張ってもオレの頭では結びつくことのない意外な組み合わせだ。
大きく振りかぶる腕からボールを放つトルネード投法は、投手が一度大きく打者に背中を見せるのが特徴だ。独特のフォームで投げるそれは球速、球威共に増すが、同時に体全体を大きく使って投げるため、体の軸や目線がぶれやすい。大きなモーションは当然身体に負担をかけるため、強靭な下半身と高いバランス感覚がなければ絶対に投げられないものだった。
「猪狩さん、ほんとにピッチャーだったんですね」
「ほんとにってなんだい」
からからと笑っている猪狩さんは、なんだか今までと別人のように思えた。今ここにいる猪狩さんは野球が大好きで、ただ純粋に目の前の事柄を楽しんでいる様子は幼い少年のようでもあった。
快活そうに笑い、額からきらりと一筋汗が伝う。
「ああ、暑いな。タオルもなにも持ってきてないや」
「あ、オレ予備がありますから」
タオルを差し出すと、ほんとうに準備がいいなと言いながら猪狩さんは受け取った。
ありがとうと改まって礼を言われ、若干たじろぐ。気にせず使ってくださいと言うと、猪狩さんは眼鏡を外して額の汗をぬぐった。眼鏡を外した顔はさらに若々しく見えた。
「猪狩さん、眼鏡を外すと印象変わりますよね」
「そうかい?」
「普段はコンタクトにしたらいいのに。きっとモテモテですよ」
「ははは」
顔に何かつけてるのが落ち着くんだよ。そう言った猪狩さんにオレは首をかしげる。
「眼鏡以外に、顔につけるものなんてあります?」
「そうだな…」
例えば、マスクとかね。ああでも、パワプロくんには似合わないかな。
そう言った猪狩さんは、今日いちばんの顔で笑った。
その意味をオレは解さなかったが、もう少しだけキャッチボールをしようと提案されたので、オレは喜んで賛成した。
こんないい天気の日には、やっぱり野球をするに限るのだ。
いきますよ、振りかぶったボールは、太陽の光の下できらきらと瞬いていた。
―――――――――――――
妄想大爆発で辛抱たまらず
この世界の進は兄さんのことが大嫌いなようなのでそういうのを表現したかったのですが、気づけばこんなことに
マスクさんのことが好きすぎてトキメキダッシュ
ポケ7進の一人称「ボク」に無限の可能性
トルネードはググりました。ウィキさんありがとう
いつかマスクさんについて本気で書きたいです書きます
欠落したバッドエンド
猪狩兄弟
病院のベッドに横たわる弟の顔を眺めて、今日で一週間になる。
先程まで一緒に見舞っていた父と母は先に帰ってしまった。自分も練習に戻らなくてはいけないが、足は病室に縫いとめられたまま動かない。
いよいよ夏の地方予選が始まる大切な時期だ。最後の夏。負ければそこで終わり、勝ってこそ次の一歩を進むことが許される。
何事もなかったかのように綺麗な顔で横たわっている弟の顔を眺める。これだけ見ていると、まるで昼寝でもしているようだ。トラックに轢かれ、ついこの間まで生死をさまよっていた人間の顔とは夢にも思えない。
夢。この一週間で、何度も頭を駆け巡った単語だ。自分は夢をみているのではないか、どうか夢であってほしい、幾度そのように願っただろう。
今まで生きてきて、こんな気持ちになったことはない。夢という言葉を、己の将来を語る以外の用途で使ったことがなかった。
何をするでもなく時間が過ぎていく。壁に掛けられた時計がカチカチと音を立て、座っている体勢を入れ替えると安っぽいパイプ椅子がぎいと鳴いた。
事故現場からいちばん近い病院がここだった。もっと設備の良い病院をと思うのだが、一命を取り留め意識の回復を待つだけとなった今、本人が目を覚まし次第転院する手筈となっていた。
思い返せば、弟の顔をここまでまじまじと眺めたのはこれが初めてだった。周囲の人間は、よく自分たち兄弟のことをそっくりだと言って形容するが、見れば見るほどにそうは思えなくて困惑を覚える。
よく見知った、進の顔だ。それ以上でもそれ以下でもない。
一瞬、弟の睫毛が震えたような気がして目を見張ったが、しばらくしても変化のない様子に、どうやら自分の吐き出した息のせいらしいと知る。
濃く透き通った紫は瞼の下に隠れたまま、この一週間一度も見ていない。
立ち上がり、パイプ椅子を畳んだ。
病室から出る前にもう一度だけ弟の顔を振り返り、ボクは約束をする。
言うまでもないことだった。それでもわざわざ口に出さずにはいられなかった自分の弱さを反省し、ボクはいよいよ病室を後にした。
+++
寝たふりをしようと思っていたわけではない。
目を開けて、一体何を言えばいいのか、どんな顔をすればいいのか分からなかった。
頭の上で、父と母がせわしなく会話を交わしている。父が「守」と言って呼びかけたので、そこに兄も一緒にいることを知った。家族が4人揃うことなど、一体いつ以来であろうか。ますますどうしたら良いのか分からない。
父と母がいる間、兄は一言も喋らなかった。
いちばん初めに目が覚めたのは、今日の深夜のことだ。
焼けるような胸の痛みと、節々を襲う鈍痛に自然と顔が歪んだ。一体何事だろうと起き上がりたいのに体を動かすことはできない。
意識を取り戻した当初、僕は軽いパニック状態であった。
動かない身体、エタノールの消毒の匂い、お世辞にも寝心地がいいとはいえないベッド。病院だった。トラックに撥ねられた瞬間を思い出して思わず目をつむる。視界がクリアになるにつれて、頭の中を取り巻いていた靄も徐々に晴れてくる。
僕はトラックに撥ねられて、この病院まで搬送されてきた。
そうして次に目が覚めたのは、日が傾き始めた夕方のことだった。カーテンの隙間から仄明るい夕日が差し込んでいた。先ほどまで深夜だったというのにもうこんな時間とは、どうやら自分は随分と眠っていたらしい。首だけ回して部屋の中を見渡す。机の上には花瓶が置いてあり、そこには一輪だけ花が活けてあった。花の名前は思い出せなかった。
何をするでもなく天井をぼんやりと眺める。
やはり体を動かすことはできず、何もしていないのにそこらじゅうが痛んだ。
瞬きをすると目じりの辺りを冷たいものが伝っていったが、痛みのせいではない。誰に何を言われなくても、野球ができないことは明白だった。完治するには随分時間がかかるだろう。野球ができるようになるまでには、もっと時間がかかることだろう。あるいはもう、一生そのようなことは叶わないのかもしれない。
まとまらない思考の中で、目の前に迫るトラックとクラクション、周囲の叫び声だけが頭の中を回った。必死の形相でこちらに駆け寄ろうとする兄の顔。何か叫んでいた。悲鳴が聞こえて、そこで記憶は途切れた。
3人が病室にやってきたのは、そんなことを考えている時だった。どうしようかと思っている間に、父と母は帰ってしまった。父が多忙なのは昔からであったし、母の体調は最近あまり芳しくない。外に出たのも久しぶりだったのではないだろうか。
兄だけが、病室にまだ残っているようであった。
時計の秒針がカチカチと進む音と、時折ぎいと鳴くそれはどうやらパイプ椅子の音らしい。それ以外は一切何の音も聞こえずに静かだった。兄は、ベッドの前にパイプ椅子を出してそこに腰かけているようだ。一体何をしているのだろうか。目を開けて確認する勇気はない。
やがて人の立ち上がる気配がして、ガチャガチャと金属音が鳴った。どうやら椅子を片づけて帰ることにしたらしい。とうとう兄は、この病室に訪れてから一言も口をきかなかった。
ガチャリとドアノブの回る音がして、自然と体の力が抜けるのが分かった。
兄の声が聞こえたのは、そのときだった。
必ず、優勝旗を持ち帰る。
パタリとドアの閉まる音。
ぱかりと目を開けて、ドアの方に視線を向ける。目の奥が熱く、喉は焼け付くようだった。頭の中はぐらぐらと煮えている。
そんなことは望んでいないと叫びたかった。
兄が何を思ってそのようなことを言ったのか胸中は知れないが、僕自身そんなことはこれっぽっちも望んでいないことだった。だって、そうだろう、優勝旗は持ってきてもらうものではない、自分の手で掴み取るものだ。
優勝旗を掴んで笑う兄を想像すると、どうしようもなく苦いものが胸の内に広がった。兄ならば、やってのけるだろう。優勝旗を持って、高らかに笑うのだろう。僕は、それを見ているのか。こんなところで、見ていなければならないのか。
ただ、野球がしたかった。兄の隣で、チームメイトの傍らで、野球がしたかった。
ただそれだけのことが今はもう随分と遠い。
僕は、野球がしたい。
ノックの音が聞こえたのは、そのときだった。
――――――――
5/9/ポケ1がごちゃまぜ
いつかマスクさんのお話をちゃんと書いてみたいの
病院のベッドに横たわる弟の顔を眺めて、今日で一週間になる。
先程まで一緒に見舞っていた父と母は先に帰ってしまった。自分も練習に戻らなくてはいけないが、足は病室に縫いとめられたまま動かない。
いよいよ夏の地方予選が始まる大切な時期だ。最後の夏。負ければそこで終わり、勝ってこそ次の一歩を進むことが許される。
何事もなかったかのように綺麗な顔で横たわっている弟の顔を眺める。これだけ見ていると、まるで昼寝でもしているようだ。トラックに轢かれ、ついこの間まで生死をさまよっていた人間の顔とは夢にも思えない。
夢。この一週間で、何度も頭を駆け巡った単語だ。自分は夢をみているのではないか、どうか夢であってほしい、幾度そのように願っただろう。
今まで生きてきて、こんな気持ちになったことはない。夢という言葉を、己の将来を語る以外の用途で使ったことがなかった。
何をするでもなく時間が過ぎていく。壁に掛けられた時計がカチカチと音を立て、座っている体勢を入れ替えると安っぽいパイプ椅子がぎいと鳴いた。
事故現場からいちばん近い病院がここだった。もっと設備の良い病院をと思うのだが、一命を取り留め意識の回復を待つだけとなった今、本人が目を覚まし次第転院する手筈となっていた。
思い返せば、弟の顔をここまでまじまじと眺めたのはこれが初めてだった。周囲の人間は、よく自分たち兄弟のことをそっくりだと言って形容するが、見れば見るほどにそうは思えなくて困惑を覚える。
よく見知った、進の顔だ。それ以上でもそれ以下でもない。
一瞬、弟の睫毛が震えたような気がして目を見張ったが、しばらくしても変化のない様子に、どうやら自分の吐き出した息のせいらしいと知る。
濃く透き通った紫は瞼の下に隠れたまま、この一週間一度も見ていない。
立ち上がり、パイプ椅子を畳んだ。
病室から出る前にもう一度だけ弟の顔を振り返り、ボクは約束をする。
言うまでもないことだった。それでもわざわざ口に出さずにはいられなかった自分の弱さを反省し、ボクはいよいよ病室を後にした。
+++
寝たふりをしようと思っていたわけではない。
目を開けて、一体何を言えばいいのか、どんな顔をすればいいのか分からなかった。
頭の上で、父と母がせわしなく会話を交わしている。父が「守」と言って呼びかけたので、そこに兄も一緒にいることを知った。家族が4人揃うことなど、一体いつ以来であろうか。ますますどうしたら良いのか分からない。
父と母がいる間、兄は一言も喋らなかった。
いちばん初めに目が覚めたのは、今日の深夜のことだ。
焼けるような胸の痛みと、節々を襲う鈍痛に自然と顔が歪んだ。一体何事だろうと起き上がりたいのに体を動かすことはできない。
意識を取り戻した当初、僕は軽いパニック状態であった。
動かない身体、エタノールの消毒の匂い、お世辞にも寝心地がいいとはいえないベッド。病院だった。トラックに撥ねられた瞬間を思い出して思わず目をつむる。視界がクリアになるにつれて、頭の中を取り巻いていた靄も徐々に晴れてくる。
僕はトラックに撥ねられて、この病院まで搬送されてきた。
そうして次に目が覚めたのは、日が傾き始めた夕方のことだった。カーテンの隙間から仄明るい夕日が差し込んでいた。先ほどまで深夜だったというのにもうこんな時間とは、どうやら自分は随分と眠っていたらしい。首だけ回して部屋の中を見渡す。机の上には花瓶が置いてあり、そこには一輪だけ花が活けてあった。花の名前は思い出せなかった。
何をするでもなく天井をぼんやりと眺める。
やはり体を動かすことはできず、何もしていないのにそこらじゅうが痛んだ。
瞬きをすると目じりの辺りを冷たいものが伝っていったが、痛みのせいではない。誰に何を言われなくても、野球ができないことは明白だった。完治するには随分時間がかかるだろう。野球ができるようになるまでには、もっと時間がかかることだろう。あるいはもう、一生そのようなことは叶わないのかもしれない。
まとまらない思考の中で、目の前に迫るトラックとクラクション、周囲の叫び声だけが頭の中を回った。必死の形相でこちらに駆け寄ろうとする兄の顔。何か叫んでいた。悲鳴が聞こえて、そこで記憶は途切れた。
3人が病室にやってきたのは、そんなことを考えている時だった。どうしようかと思っている間に、父と母は帰ってしまった。父が多忙なのは昔からであったし、母の体調は最近あまり芳しくない。外に出たのも久しぶりだったのではないだろうか。
兄だけが、病室にまだ残っているようであった。
時計の秒針がカチカチと進む音と、時折ぎいと鳴くそれはどうやらパイプ椅子の音らしい。それ以外は一切何の音も聞こえずに静かだった。兄は、ベッドの前にパイプ椅子を出してそこに腰かけているようだ。一体何をしているのだろうか。目を開けて確認する勇気はない。
やがて人の立ち上がる気配がして、ガチャガチャと金属音が鳴った。どうやら椅子を片づけて帰ることにしたらしい。とうとう兄は、この病室に訪れてから一言も口をきかなかった。
ガチャリとドアノブの回る音がして、自然と体の力が抜けるのが分かった。
兄の声が聞こえたのは、そのときだった。
必ず、優勝旗を持ち帰る。
パタリとドアの閉まる音。
ぱかりと目を開けて、ドアの方に視線を向ける。目の奥が熱く、喉は焼け付くようだった。頭の中はぐらぐらと煮えている。
そんなことは望んでいないと叫びたかった。
兄が何を思ってそのようなことを言ったのか胸中は知れないが、僕自身そんなことはこれっぽっちも望んでいないことだった。だって、そうだろう、優勝旗は持ってきてもらうものではない、自分の手で掴み取るものだ。
優勝旗を掴んで笑う兄を想像すると、どうしようもなく苦いものが胸の内に広がった。兄ならば、やってのけるだろう。優勝旗を持って、高らかに笑うのだろう。僕は、それを見ているのか。こんなところで、見ていなければならないのか。
ただ、野球がしたかった。兄の隣で、チームメイトの傍らで、野球がしたかった。
ただそれだけのことが今はもう随分と遠い。
僕は、野球がしたい。
ノックの音が聞こえたのは、そのときだった。
――――――――
5/9/ポケ1がごちゃまぜ
いつかマスクさんのお話をちゃんと書いてみたいの
甘いデザートは最後にどうぞ
神童さんと進くん
「僕、神童さんに会うために生まれてきたような気がするんです」
ご飯ですよ、と呼ばれてキッチンに行ってみると、進くんはにっこりとしながらそんなことを言った。それは光栄だねと微笑み返すと、彼は照れたように笑って俺に席を勧めてきた。
言われたままいつもの席に座り、テーブルの上を眺める。いつもながらに、いや、いつも以上に豪勢な食事だった。彼は料理が得意だった。いつだったか、毎回こんなに作るのは大変ではないかと尋ねたことがあったが、好きだからいいんですと教えてくれた。
それに、神童さんに食べてもらえるのが嬉しいんです。
「そうだ、洗濯をしたときにボタンのとれたシャツがありましたから、繕っておきました」
あっちのハンガーにかけてありますからねと言った彼はまさしく少女のように可憐に笑った。
わざわざ口に出すことではないだろうと思って黙っているが、彼はエプロン姿というものがとてもよく似合う。腰回りが細い彼には、男性用のエプロンは幾分かあまりがちになるらしい。くるりと後ろを向くと大きくリボン結びがなされた紐が垂れている。いつの日か俺がプレゼントしたものだ。随分と気に入ってくれたらしい進くんは長いことそれを愛用している。
「あ、ご飯が冷めちゃいますね。どうぞ召し上がってください」
ほこほこと湯気を立てる白いご飯、そして今日のメインはビーフシチューだった。それに加えて、トマトとキュウリのたっぷり乗ったサラダ、白身魚のホイル焼き、煮物、さらには漬物までもところせましとテーブルに置かれていた。ボリュームたっぷりなのはいつものことであったが、自分の好物ばかりが取り揃えられているということに気が付いた。
下準備がきちんとなされた柔らかい肉とごろごろとした大きめの野菜が入っているビーフシチュー。彼の作るそれはいつだって絶品だった。目の前にあるそれは今日もいつもと寸分たがわずに美味そうだ。ごくりと喉が鳴る。
「そうだ。この前神童さんのアドバイス通り少しスイングを変えてみたらすごく調子が良くなったんです」
この調子でスランプも抜けられたらいいんですけどね、と彼は力なく笑った。
俺は最近の彼の様子を見ていてもそこまで調子が悪いようには思えなかったが、彼は頑なにスランプだといってきかなかった。確かに以前よりも多少打率は下がっているようだったが、相変わらずどんなピッチャーに対しても上手に当てるバッティングをするし、司令塔としてマスクをかぶる彼は相変わらずの活躍であった。
それでも何か少しでも参考になるのならと、グリップの握りとスイングについて話をしたところだった。良くなったと感じるのならそれでいい。
「神童さんの球を受けるキャッチャーがヘボじゃあ恥ずかしいですからね」
軽い物言いだったが、その顔は真剣だった。前から感じていたことだったが、彼はいささか俺という人間を過大評価しすぎている。確かにそれなりの成績も残しているし練習量も人よりちょっとばかし多いかもしれないが、ただそれだけのことだ。
野球が好きだから練習もするし、練習したからには活躍できたら純粋に嬉しい。昔からずっと、ただそれだけのことをしているだけだった。
「神童さんの球を受けるのは、僕ですからね」
微笑んだその顔に、入団当初の彼の顔が重なった。僕はあなたにあこがれてこの球団に入りました。真っ直ぐとこちらを見て言った彼の瞳には、いささかの曇りもなかった。強い意志とはっきりとした決意を感じ取ったのをよく覚えている。それは、今自分の前にいる彼も同じことだった。
にこにこと微笑みながらも、こちらを射抜く視線は寸分の曇りもなく澄んでいた。
彼の大きな紫色の瞳が好きだった。眼差しから優しさが滲み出ているようだった。
「そうそう、言い忘れていました」
その瞳がふわりと細められ、彼は今日いちばんの笑顔で言った。
「神童さん、ご結婚おめでとうございます」
ありがとう、進くん。だからこれから先の話は、こちらに向けている包丁を置いてからにしようか。夜はまだ長い。
―――――――――
ずっと書きたかったネタですが、相手を誰にするのか悩んだ末神童さんになりました
主人公ちゃんや兄さんでもベリーベリーおいしいと思うのでどなたかお願いしまーす!
「僕、神童さんに会うために生まれてきたような気がするんです」
ご飯ですよ、と呼ばれてキッチンに行ってみると、進くんはにっこりとしながらそんなことを言った。それは光栄だねと微笑み返すと、彼は照れたように笑って俺に席を勧めてきた。
言われたままいつもの席に座り、テーブルの上を眺める。いつもながらに、いや、いつも以上に豪勢な食事だった。彼は料理が得意だった。いつだったか、毎回こんなに作るのは大変ではないかと尋ねたことがあったが、好きだからいいんですと教えてくれた。
それに、神童さんに食べてもらえるのが嬉しいんです。
「そうだ、洗濯をしたときにボタンのとれたシャツがありましたから、繕っておきました」
あっちのハンガーにかけてありますからねと言った彼はまさしく少女のように可憐に笑った。
わざわざ口に出すことではないだろうと思って黙っているが、彼はエプロン姿というものがとてもよく似合う。腰回りが細い彼には、男性用のエプロンは幾分かあまりがちになるらしい。くるりと後ろを向くと大きくリボン結びがなされた紐が垂れている。いつの日か俺がプレゼントしたものだ。随分と気に入ってくれたらしい進くんは長いことそれを愛用している。
「あ、ご飯が冷めちゃいますね。どうぞ召し上がってください」
ほこほこと湯気を立てる白いご飯、そして今日のメインはビーフシチューだった。それに加えて、トマトとキュウリのたっぷり乗ったサラダ、白身魚のホイル焼き、煮物、さらには漬物までもところせましとテーブルに置かれていた。ボリュームたっぷりなのはいつものことであったが、自分の好物ばかりが取り揃えられているということに気が付いた。
下準備がきちんとなされた柔らかい肉とごろごろとした大きめの野菜が入っているビーフシチュー。彼の作るそれはいつだって絶品だった。目の前にあるそれは今日もいつもと寸分たがわずに美味そうだ。ごくりと喉が鳴る。
「そうだ。この前神童さんのアドバイス通り少しスイングを変えてみたらすごく調子が良くなったんです」
この調子でスランプも抜けられたらいいんですけどね、と彼は力なく笑った。
俺は最近の彼の様子を見ていてもそこまで調子が悪いようには思えなかったが、彼は頑なにスランプだといってきかなかった。確かに以前よりも多少打率は下がっているようだったが、相変わらずどんなピッチャーに対しても上手に当てるバッティングをするし、司令塔としてマスクをかぶる彼は相変わらずの活躍であった。
それでも何か少しでも参考になるのならと、グリップの握りとスイングについて話をしたところだった。良くなったと感じるのならそれでいい。
「神童さんの球を受けるキャッチャーがヘボじゃあ恥ずかしいですからね」
軽い物言いだったが、その顔は真剣だった。前から感じていたことだったが、彼はいささか俺という人間を過大評価しすぎている。確かにそれなりの成績も残しているし練習量も人よりちょっとばかし多いかもしれないが、ただそれだけのことだ。
野球が好きだから練習もするし、練習したからには活躍できたら純粋に嬉しい。昔からずっと、ただそれだけのことをしているだけだった。
「神童さんの球を受けるのは、僕ですからね」
微笑んだその顔に、入団当初の彼の顔が重なった。僕はあなたにあこがれてこの球団に入りました。真っ直ぐとこちらを見て言った彼の瞳には、いささかの曇りもなかった。強い意志とはっきりとした決意を感じ取ったのをよく覚えている。それは、今自分の前にいる彼も同じことだった。
にこにこと微笑みながらも、こちらを射抜く視線は寸分の曇りもなく澄んでいた。
彼の大きな紫色の瞳が好きだった。眼差しから優しさが滲み出ているようだった。
「そうそう、言い忘れていました」
その瞳がふわりと細められ、彼は今日いちばんの笑顔で言った。
「神童さん、ご結婚おめでとうございます」
ありがとう、進くん。だからこれから先の話は、こちらに向けている包丁を置いてからにしようか。夜はまだ長い。
―――――――――
ずっと書きたかったネタですが、相手を誰にするのか悩んだ末神童さんになりました
主人公ちゃんや兄さんでもベリーベリーおいしいと思うのでどなたかお願いしまーす!
奇跡は起こすもの
主守
今日はパーティがあるからね。
そう言ってオレの電話を切った猪狩はやっぱりいつもの猪狩だった。
そういえばあいつ、今日でいくつになったんだっけ?
今日はクリスマス・イブ。そして猪狩の生まれた日である。
猪狩はオレの恋人だ。
そんな今日がめでたくなくて、一体いつがめでたいというのだろう!
などというルンルン気分でかけたオレの電話は、およそ数十秒で玉砕と散ることになってしまったわけだ。
今日はパーティだって、言ってなかったかい?
悪びれもせず言った猪狩は、少し早口で続けた。
クリスマスとボクの誕生日を兼ねて、この日は毎年パーティをするんだ。今日は一日家から出ることはないね。
じゃあ、またねと言って電話を切った猪狩は終始慌ただしそうであった。おそらくパーティの準備で忙しいのだろう。そりゃそうだ、主役がいなくちゃどうにもならない。
分かっていたことではあったが、嫌でも庶民の自分と猪狩との違いを実感させられてしまう。受話器に向かって溜息をついたところで猪狩の耳に届くことはない。
そのようなやり取りをしたのが、かれこれ何時間前の話だろうか。
今はもう、あと少しで日付が変わってしまうほどの深夜である。
往生際の悪いオレは、どうしても今日この日の猪狩との逢瀬を諦めきれなくて、猪狩邸まで出向いてしまったのだった。そしてそこであっさりと諦めた。
頑丈な鉄門で閉ざされたそこはまるで要塞である。いつ見てもでかい。為す術もなく、オレはすごすごと帰ってきた。今頃猪狩のやつときたら、美味いもんを食べてよく分からないダンスなんか踊ったりしてパーティを満喫しているに違いないのだ。こんな深夜まで?というツッコミは不在である。オレに金持ちのやることは分からない。
はあ~あ、と吐く息は白く、それは空中に少し留まってすぐに消えた。
早く帰ればいいのに、オレというやつはうだうだと深夜の公園で暇をつぶしているのであった。つい先ほど買ったばかりのホットコーヒーはあっという間に冷たくなってしまっていた。
ほんの少し遊具があるだけの小さな公園。
当たり前だが、こんな時間に他の人影はない。それでもオレがこんなところに居たがったのは、ここに猪狩との大切な思い出があるからだった。猪狩は恥ずかしがってこの話題を出されるのを嫌がるが、なんとここはオレと猪狩がファーストキッスを交わした場所なのである。
どうしてそんなことになったのかは忘れた。たぶん、またいつものようにくだらないことで喧嘩をしていたのだろう。ぎゃあぎゃあと言い争いをして、猪狩は珍しく涙ぐんでいた。その様子にぎょっとしたのをよく覚えている。
「そうだ、ブランコにも乗ったんだよな」
あの日のことを思い出して、オレはブランコに手をかけた。誰もいないのは分かっているのだが、一応辺りを見回して誰もいないのを確認してからブランコに乗る。
こぎ出すと意外に楽しく、ブランコはどんどんと高度を上げて勢いは増していった。
ああそうだ、猪狩はブランコに乗ったことがないと言っていたのだ。嘘だあというオレの言葉を遮って、猪狩は決意の形相でブランコに手をかけた。
「ナイス着地、と」
ポーンとブランコから飛び出して、オレは見事に着地を決めた。あの日の猪狩のように転んだりはしない。あの日、まさか転ぶとは思わなかったので、ぽかんと口を開けてオレは見入ってしまった。起き上がった猪狩はぶすっとした顔で「もう一回やる」と言ったのだった。そして今度こそ見事な着地を決めた。
負けず嫌いなオレたちは、それから阿呆のようにどれだけ遠くに飛べるのか勝負をしたのだった。
近いような遠いような不思議な記憶だ。まだそれほど前のこととも思えないし、その一方で随分と昔のことのようにも思える。
ブランコの次はジャングルジムに上ったオレは、遠い空を眺めてそっくり返った。
お世辞にも満点の星空とは言えず、いくつかの星がちらちらと瞬いているばかりだった。そういえば、お天気お姉さんが、今夜は雪が降るかもしれませんと言っていたことを思い出す。ホワイトクリスマスですねと言って笑った顔が印象的だった。もしそうだとしたら早く降ってきてくれないか。寂しいオレを慰める、そんな少しのサプライズがあったっていいだろう。
なんてったって、今日はクリスマス・イブ。そして猪狩の生まれた日。
いかにも何かが起きそうな、そんな予感。ちょっとくらい、奇跡が起こったっていいだろう。
オレはその少しの奇跡を信じて、この寒空の下で待っていたのだ。
だってほら、
「キミはほんとうにバカだな」
公園の入り口に誰かが立っていた。外灯の灯りが丁度逆光になっていて顔は見えなかったが、誰なのかは明白だった。
確かな足取りで近づいてくる。ジャングルジムの上から見下ろすと、その人が怒っていることだけはしっかりと確認できた。
「猪狩。来てくれたんだ」
「何が来てくれたんだ、だ。しらじらしい。あんなメールを送っておいて」
「えへへ、見ちゃった?」
「一体、何時間前からここにいたんだ」
降りて来い、と猪狩が怖い顔で言うのでオレはおとなしくジャングルジムから降りることにした。猪狩の隣に立って顔を覗き込むも、どうにもこうにも猪狩は怒っているようだった。
「パワプロ、ボクは朝言ったよな」
「うん」
「今日はパーティだからって」
「うん」
「明日会う約束もしてただろう」
「うん」
「それなのに、どうしてキミはこんなところにいるんだ」
凛々しい眉をぎゅーっと上げて猪狩の怒りは収まらないようだったので、オレは作戦を変更することにした。本当はもう少しロマンチックな雰囲気で渡したかったのだが、この際仕方ない。
ベンチに置きっぱなしになっていたプレゼントの包みをがさがさと取り出す。
「どうしても、今日お前に会いたかったんだよ」
「…」
「おめでとうも、言いそびれちゃったし」
「…」
「迷惑かけたのは謝るよ、ごめん。だから、これでちょっとは機嫌直して」
がさがさと取り出したのは、マフラーだった。派手な猪狩が好きそうなものを、そう思って色は赤にした。正直オレはどうかと思うが、黒や白より猪狩が明るい色を好むことをオレはよく知っていた。そして、明るい色は猪狩によく映えるのだ。
いかにも上等そうなコートを着ているが、首元が寒そうな猪狩にマフラーを渡す。
そのまま巻いてやろうと思うのだが、いかんせん手がかじかんで上手く巻いてやることができない。わたわたと何度もマフラーを掴むオレの手を、猪狩は制した。
ぐいと胸倉をつかまれる。間近で見た猪狩の瞳は燃えていた。
「プロの選手なら、体調管理をするのは当たり前のことだ。どうせキミは、ボクが来なければ朝まででもこんなところにいるんだろう。バカだ、ほんとうに。キミはもう少し自覚を持て」
「ご、ごめん。だけど、猪狩」
続く言葉は猪狩の唇に飲み込まれてしまった。熱い、猪狩の唇。少しだけ離れて、今度は確かめるようにゆっくりと重なった。
長い間外にいたせいでかさかさになってしまったオレの唇を、猪狩の舌がなぞるように触れていく。ちろちろと探るような動きがくすぐったい。それでも黙ったまま、されるがままにしていると、猪狩の舌はそのまま歯列を割ってオレの口内に侵入してきた。寒さから、奥の方で縮こまっていた舌を絡め取られる。深く侵入してくる猪狩の口付けは珍しいものだった。いつの間にか両手で顔を固定されていて、苦しくても逃げることができない。
唇を離す頃には、息苦しさと興奮がないまぜになって息が上がっていた。
「猪狩」
「こんなに冷えて、やっぱりバカだキミは」
「そればっかだな」
猪狩の背に腕を回すと、猪狩も黙ってオレの身体を抱きしめた。
そのまましばらく抱き合っていたが、急に我に返ったらしい猪狩はオレの腕からすり抜けて言った。
「ボクにはまだやらなくちゃいけないことがあるんだった」
「大変だな、主役は」
「全くだね、どこかのバカには振り回されるしね」
「相変わらず辛辣だな~」
出口に向かいながら、くるりと振り返った猪狩が言った。
「これ、キミにしてはセンスがいいね。気に入ったよ」
「そりゃ良かった。明日のデートでつけてきてよ」
「…フン」
「猪狩」
「なんだい」
「誕生日おめでとう。愛してるよ」
にっこり笑ってそう言うと、猪狩はほんの少し驚いた顔をして、もう過ぎてるけどねと言って今度こそ本当に帰ってしまった。
残されたオレは、一人携帯を取り出してディスプレイで時刻を確認する。
「ありゃ、ほんとうだ」
どうやら奇跡は、ほんの少し時間切れだったらしい。
ふふふと笑って猪狩が出て行った方向を見やる。そのまま空を見上げると、雪がちらちらと落ちてくるところだった。
唇をぺろりと舐める。明日は、今日のことでほんの少し猪狩をからかって、奇跡の続きを存分に楽しむことにしよう。
――――――――
守さん、ハッピーハッピーバースデイ!
おめでたすぎて逆にどうしたらいいのか分かりませんが、心の底から、おめでとう!
今日はパーティがあるからね。
そう言ってオレの電話を切った猪狩はやっぱりいつもの猪狩だった。
そういえばあいつ、今日でいくつになったんだっけ?
今日はクリスマス・イブ。そして猪狩の生まれた日である。
猪狩はオレの恋人だ。
そんな今日がめでたくなくて、一体いつがめでたいというのだろう!
などというルンルン気分でかけたオレの電話は、およそ数十秒で玉砕と散ることになってしまったわけだ。
今日はパーティだって、言ってなかったかい?
悪びれもせず言った猪狩は、少し早口で続けた。
クリスマスとボクの誕生日を兼ねて、この日は毎年パーティをするんだ。今日は一日家から出ることはないね。
じゃあ、またねと言って電話を切った猪狩は終始慌ただしそうであった。おそらくパーティの準備で忙しいのだろう。そりゃそうだ、主役がいなくちゃどうにもならない。
分かっていたことではあったが、嫌でも庶民の自分と猪狩との違いを実感させられてしまう。受話器に向かって溜息をついたところで猪狩の耳に届くことはない。
そのようなやり取りをしたのが、かれこれ何時間前の話だろうか。
今はもう、あと少しで日付が変わってしまうほどの深夜である。
往生際の悪いオレは、どうしても今日この日の猪狩との逢瀬を諦めきれなくて、猪狩邸まで出向いてしまったのだった。そしてそこであっさりと諦めた。
頑丈な鉄門で閉ざされたそこはまるで要塞である。いつ見てもでかい。為す術もなく、オレはすごすごと帰ってきた。今頃猪狩のやつときたら、美味いもんを食べてよく分からないダンスなんか踊ったりしてパーティを満喫しているに違いないのだ。こんな深夜まで?というツッコミは不在である。オレに金持ちのやることは分からない。
はあ~あ、と吐く息は白く、それは空中に少し留まってすぐに消えた。
早く帰ればいいのに、オレというやつはうだうだと深夜の公園で暇をつぶしているのであった。つい先ほど買ったばかりのホットコーヒーはあっという間に冷たくなってしまっていた。
ほんの少し遊具があるだけの小さな公園。
当たり前だが、こんな時間に他の人影はない。それでもオレがこんなところに居たがったのは、ここに猪狩との大切な思い出があるからだった。猪狩は恥ずかしがってこの話題を出されるのを嫌がるが、なんとここはオレと猪狩がファーストキッスを交わした場所なのである。
どうしてそんなことになったのかは忘れた。たぶん、またいつものようにくだらないことで喧嘩をしていたのだろう。ぎゃあぎゃあと言い争いをして、猪狩は珍しく涙ぐんでいた。その様子にぎょっとしたのをよく覚えている。
「そうだ、ブランコにも乗ったんだよな」
あの日のことを思い出して、オレはブランコに手をかけた。誰もいないのは分かっているのだが、一応辺りを見回して誰もいないのを確認してからブランコに乗る。
こぎ出すと意外に楽しく、ブランコはどんどんと高度を上げて勢いは増していった。
ああそうだ、猪狩はブランコに乗ったことがないと言っていたのだ。嘘だあというオレの言葉を遮って、猪狩は決意の形相でブランコに手をかけた。
「ナイス着地、と」
ポーンとブランコから飛び出して、オレは見事に着地を決めた。あの日の猪狩のように転んだりはしない。あの日、まさか転ぶとは思わなかったので、ぽかんと口を開けてオレは見入ってしまった。起き上がった猪狩はぶすっとした顔で「もう一回やる」と言ったのだった。そして今度こそ見事な着地を決めた。
負けず嫌いなオレたちは、それから阿呆のようにどれだけ遠くに飛べるのか勝負をしたのだった。
近いような遠いような不思議な記憶だ。まだそれほど前のこととも思えないし、その一方で随分と昔のことのようにも思える。
ブランコの次はジャングルジムに上ったオレは、遠い空を眺めてそっくり返った。
お世辞にも満点の星空とは言えず、いくつかの星がちらちらと瞬いているばかりだった。そういえば、お天気お姉さんが、今夜は雪が降るかもしれませんと言っていたことを思い出す。ホワイトクリスマスですねと言って笑った顔が印象的だった。もしそうだとしたら早く降ってきてくれないか。寂しいオレを慰める、そんな少しのサプライズがあったっていいだろう。
なんてったって、今日はクリスマス・イブ。そして猪狩の生まれた日。
いかにも何かが起きそうな、そんな予感。ちょっとくらい、奇跡が起こったっていいだろう。
オレはその少しの奇跡を信じて、この寒空の下で待っていたのだ。
だってほら、
「キミはほんとうにバカだな」
公園の入り口に誰かが立っていた。外灯の灯りが丁度逆光になっていて顔は見えなかったが、誰なのかは明白だった。
確かな足取りで近づいてくる。ジャングルジムの上から見下ろすと、その人が怒っていることだけはしっかりと確認できた。
「猪狩。来てくれたんだ」
「何が来てくれたんだ、だ。しらじらしい。あんなメールを送っておいて」
「えへへ、見ちゃった?」
「一体、何時間前からここにいたんだ」
降りて来い、と猪狩が怖い顔で言うのでオレはおとなしくジャングルジムから降りることにした。猪狩の隣に立って顔を覗き込むも、どうにもこうにも猪狩は怒っているようだった。
「パワプロ、ボクは朝言ったよな」
「うん」
「今日はパーティだからって」
「うん」
「明日会う約束もしてただろう」
「うん」
「それなのに、どうしてキミはこんなところにいるんだ」
凛々しい眉をぎゅーっと上げて猪狩の怒りは収まらないようだったので、オレは作戦を変更することにした。本当はもう少しロマンチックな雰囲気で渡したかったのだが、この際仕方ない。
ベンチに置きっぱなしになっていたプレゼントの包みをがさがさと取り出す。
「どうしても、今日お前に会いたかったんだよ」
「…」
「おめでとうも、言いそびれちゃったし」
「…」
「迷惑かけたのは謝るよ、ごめん。だから、これでちょっとは機嫌直して」
がさがさと取り出したのは、マフラーだった。派手な猪狩が好きそうなものを、そう思って色は赤にした。正直オレはどうかと思うが、黒や白より猪狩が明るい色を好むことをオレはよく知っていた。そして、明るい色は猪狩によく映えるのだ。
いかにも上等そうなコートを着ているが、首元が寒そうな猪狩にマフラーを渡す。
そのまま巻いてやろうと思うのだが、いかんせん手がかじかんで上手く巻いてやることができない。わたわたと何度もマフラーを掴むオレの手を、猪狩は制した。
ぐいと胸倉をつかまれる。間近で見た猪狩の瞳は燃えていた。
「プロの選手なら、体調管理をするのは当たり前のことだ。どうせキミは、ボクが来なければ朝まででもこんなところにいるんだろう。バカだ、ほんとうに。キミはもう少し自覚を持て」
「ご、ごめん。だけど、猪狩」
続く言葉は猪狩の唇に飲み込まれてしまった。熱い、猪狩の唇。少しだけ離れて、今度は確かめるようにゆっくりと重なった。
長い間外にいたせいでかさかさになってしまったオレの唇を、猪狩の舌がなぞるように触れていく。ちろちろと探るような動きがくすぐったい。それでも黙ったまま、されるがままにしていると、猪狩の舌はそのまま歯列を割ってオレの口内に侵入してきた。寒さから、奥の方で縮こまっていた舌を絡め取られる。深く侵入してくる猪狩の口付けは珍しいものだった。いつの間にか両手で顔を固定されていて、苦しくても逃げることができない。
唇を離す頃には、息苦しさと興奮がないまぜになって息が上がっていた。
「猪狩」
「こんなに冷えて、やっぱりバカだキミは」
「そればっかだな」
猪狩の背に腕を回すと、猪狩も黙ってオレの身体を抱きしめた。
そのまましばらく抱き合っていたが、急に我に返ったらしい猪狩はオレの腕からすり抜けて言った。
「ボクにはまだやらなくちゃいけないことがあるんだった」
「大変だな、主役は」
「全くだね、どこかのバカには振り回されるしね」
「相変わらず辛辣だな~」
出口に向かいながら、くるりと振り返った猪狩が言った。
「これ、キミにしてはセンスがいいね。気に入ったよ」
「そりゃ良かった。明日のデートでつけてきてよ」
「…フン」
「猪狩」
「なんだい」
「誕生日おめでとう。愛してるよ」
にっこり笑ってそう言うと、猪狩はほんの少し驚いた顔をして、もう過ぎてるけどねと言って今度こそ本当に帰ってしまった。
残されたオレは、一人携帯を取り出してディスプレイで時刻を確認する。
「ありゃ、ほんとうだ」
どうやら奇跡は、ほんの少し時間切れだったらしい。
ふふふと笑って猪狩が出て行った方向を見やる。そのまま空を見上げると、雪がちらちらと落ちてくるところだった。
唇をぺろりと舐める。明日は、今日のことでほんの少し猪狩をからかって、奇跡の続きを存分に楽しむことにしよう。
――――――――
守さん、ハッピーハッピーバースデイ!
おめでたすぎて逆にどうしたらいいのか分かりませんが、心の底から、おめでとう!
瓦解
進守
思えば、崩壊の兆しはずいぶんと前からあった。
それが表出するのか、内面に沈んだまま鈍く光っているのか、ただそれだけの違いだった。
気付いてしまえばそれはとても簡単なことで、長年胸をつかえさせていた嫌なしこりが喉元をすっと下っていくような思いで僕は唾をのみ込んだ。
ずっとやってみたかったことを、僕は今日実行に移した。
僕の下でもがいている兄は、一切の抵抗をしない。
馬乗りにされて首を絞められているというのに、抵抗をしないとは一体全体どういうことなのだろう。
兄は死にたがっているようには見えなかったし、そういう人間ではないことを僕はよく知っている。
必死になって抵抗して、泣いて暴れて、自分を叱責する兄を想像していた僕としては若干拍子抜けの思いである。
兄さん、ちゃんと抵抗しないと、どうなっても知らないよ。
なんてったって、僕はこんなことをするのは初めてなんだからね。
もちろん加減の仕方なんて知らない。
僕は昔から兄の青い瞳が好きだった。
それはどこまでも透き通っていて、汚いことなど何も知らないかのようにただ純粋なきらめきを以て兄は世界を見ていた。
そんな兄を体現しているかのように深く澄んだブルーの瞳。
兄の見る世界とは一体どのようなものなのだろうか、僕はそれがずっと気になっていた。
首を絞められて抵抗する兄の瞳が、一体どんな色を映すのか、僕はそれが知りたい。
歪むのだろうか、濁るのだろうか、それとも。
それだというのに、兄の瞳は一向に開かれないまま、閉ざされたままなのである。
兄はこんなときにまでいじわるだ。
その瞳に映る僕は何色なのか、それが知りたかっただけなのに。
「兄さん」
呼びかけても兄は答えない。
自分がそうさせているというのに、僕はそれがどうしようもなく許せなかった。
首を絞める指に力が入り、爪が食い込む。
ぎりぎりと締め上げる感覚は、僕が長い間抱き続けてきた感情にも似ていた。
僕にとっての兄とは、真綿で首を絞められるようなものだった。
じわりじわりと確実に締め上げ、それはいつしか決定的な苦しみとなる。
世界でただひとりだけ、僕の愛しい兄さん。
手を離すと、兄は大きく息をついて盛大にむせ返った。
体をくの字に折り曲げて苦しそうに咳き込んでいる。
その様子を横目に僕は兄の上から降りて、ついでにベッドからも降りた。
これ以上ここにいても無駄だと思ったからだ。
やりたかったことはやってみたし、もういい。
「進」
僕の名を呼んだ兄の声は、ひそかに震えていた。蚊の鳴くような声だった。
僕はなんにも知らないフリをして振り返る。
「進、おまえはボクを殺したいのか」
知らないよ、そんなの。
それだけ言って、僕は部屋を後にした。
―――――
みじかい
思えば、崩壊の兆しはずいぶんと前からあった。
それが表出するのか、内面に沈んだまま鈍く光っているのか、ただそれだけの違いだった。
気付いてしまえばそれはとても簡単なことで、長年胸をつかえさせていた嫌なしこりが喉元をすっと下っていくような思いで僕は唾をのみ込んだ。
ずっとやってみたかったことを、僕は今日実行に移した。
僕の下でもがいている兄は、一切の抵抗をしない。
馬乗りにされて首を絞められているというのに、抵抗をしないとは一体全体どういうことなのだろう。
兄は死にたがっているようには見えなかったし、そういう人間ではないことを僕はよく知っている。
必死になって抵抗して、泣いて暴れて、自分を叱責する兄を想像していた僕としては若干拍子抜けの思いである。
兄さん、ちゃんと抵抗しないと、どうなっても知らないよ。
なんてったって、僕はこんなことをするのは初めてなんだからね。
もちろん加減の仕方なんて知らない。
僕は昔から兄の青い瞳が好きだった。
それはどこまでも透き通っていて、汚いことなど何も知らないかのようにただ純粋なきらめきを以て兄は世界を見ていた。
そんな兄を体現しているかのように深く澄んだブルーの瞳。
兄の見る世界とは一体どのようなものなのだろうか、僕はそれがずっと気になっていた。
首を絞められて抵抗する兄の瞳が、一体どんな色を映すのか、僕はそれが知りたい。
歪むのだろうか、濁るのだろうか、それとも。
それだというのに、兄の瞳は一向に開かれないまま、閉ざされたままなのである。
兄はこんなときにまでいじわるだ。
その瞳に映る僕は何色なのか、それが知りたかっただけなのに。
「兄さん」
呼びかけても兄は答えない。
自分がそうさせているというのに、僕はそれがどうしようもなく許せなかった。
首を絞める指に力が入り、爪が食い込む。
ぎりぎりと締め上げる感覚は、僕が長い間抱き続けてきた感情にも似ていた。
僕にとっての兄とは、真綿で首を絞められるようなものだった。
じわりじわりと確実に締め上げ、それはいつしか決定的な苦しみとなる。
世界でただひとりだけ、僕の愛しい兄さん。
手を離すと、兄は大きく息をついて盛大にむせ返った。
体をくの字に折り曲げて苦しそうに咳き込んでいる。
その様子を横目に僕は兄の上から降りて、ついでにベッドからも降りた。
これ以上ここにいても無駄だと思ったからだ。
やりたかったことはやってみたし、もういい。
「進」
僕の名を呼んだ兄の声は、ひそかに震えていた。蚊の鳴くような声だった。
僕はなんにも知らないフリをして振り返る。
「進、おまえはボクを殺したいのか」
知らないよ、そんなの。
それだけ言って、僕は部屋を後にした。
―――――
みじかい

