共喰い
共喰い (猪狩進×猪狩守)
はめられた手袋が行為の合図だった。
「なんだ…兄さんもしたかったんですね」
白い手袋をつけた進に頬を撫でられる。否定も肯定もせずに顔をそむけると、進はくすりと笑って鼻の頭に口付けた。下りてきたその唇は、ボクの唇と重なることは決してない。進は、こういった行為をする際に、キスだけは絶対にしないのだった。進の布越しの親指が、ボクの唇をなぞるようにして触れていく。
「今日の兄さんは、いつもより物欲しそうな顔をしていますね」
なにかあったんですか?尋ねながらも、進がこちらの答えなど初めから求めていないことはよく知っている。
進はボクの顔を見ることもなく、淡々とシャツのボタンを外していった。黙々とこなされるそれは単純に作業である。手袋をつけているのに器用なものだと思いながら、ボクは衣服を剥ぎ取っていく指先を黙って見つめていた。進とこういうことをするようになって、もう何度目になるだろう。
「う…」
何度繰り返されようと、幾度経験しようと、肌を這う布の感覚には慣れそうにもなかった。薄い絹の手袋だが、布一枚隔てているだけでこんなにも違う。進は行為の際、必ず手袋をつける。どうして進がそんなことをするのか自分は知らないし、そもそもいつからこんな行為を続けているのかも忘れてしまった。
分かっているのは、手袋をつけることが行為の始まる合図だということ、そして手袋をつけた進からは逃げられないということだ。
柔らかな布の感触が、胸のあたりをいったりきたりしている。それは突起を押したり摘まんだりとせわしなく、思わず眉を歪めて唇を引き結んだ。それを見た進は薄く笑むと、指を口の中に突っこんで乱暴にかき回した。喉の奥まで入れられたそれに思わず嘔吐く。噎せ返って体を折るも、進はやっぱり笑っていた。
「声、我慢しちゃダメって言ったでしょう。いけない兄さんですね」
「あっ…」
痛いほどに先端の突起を摘ままれる。己の唾液で濡れた手袋は冷たく、思わず声を上げていた。執拗にそこばかりを攻め立てられ、なんだか頭がぼんやりしてくる。体の奥から湧く確かな熱に絶望するも、仕立て上げられた身体はどこまでも進の愛撫に従順であり、抗う術がない。濡れた布が肌をこする快感はゾクゾクと背を這い、蝕むように全身へと広がっていく。
「兄さんって、乳首をいじられるの好きですよね」
「あ、あ…」
「こんなのが、そんなに気持ち良いんですか?」
「は、あ…」
「僕にはよく分かりませんけど」
いつものことだったが、ボクは進にこうされていると、だんだんわけが分からなくなってきてしまう。布越しの感覚がもどかしい、熱で浮かされているうちにそんなことを思うようになってしまう。直接触って欲しいと欲求が叫ぶたび、望まない行為にそんなことをねだるのはおかしいと理性が訴えかける。
「兄さん、何を考えているんですか?僕が目の前にいるのに、考え事?兄さんのそういうところが、僕」
大嫌いなんですよ。忌々し気に吐き捨てられた進の声は、やけにはっきりと響いた。目頭が熱くなって、鼻の奥がつんとする。上質なシーツを濡らすそれを見て、進は大きなため息をついた。
「なんで泣くんですか?」
そんなの分からない。ボクには分からないことばかりだ。ボクが答えないことに進は苛立っているようで、進はいつもより幾分か性急に、そして乱暴に衣服を剥ぎ取っていった。裸にされ、ベッドの上に投げ出される。
「兄さんって、つくづく変態ですよね」
すっかり勃起している中心を痛いほどに掴まれ、思わず声が漏れた。進の唇には薄い笑みが浮かんでいる。
「こんなことをされても、感じているんですからね」
進はそれを掴んだまま、今度はボクが快感を得るようにゆっくりといやらしく上下に扱いていった。粘着質な水音がぐちゃぐちゃと響いて、ボクの吐息と、興奮しているらしい進のそれが交わって耳の奥に溶けていった。何もわからないのに、いつだってもたらされる快楽に身体は正直で、ボクは逃れられない波に攫われていくような感覚に陥る。
乱暴な言動とは裏腹に、優しい手つきで愛撫を施す進に、ボクの身体は従順に高ぶっていく。やめてほしい、気持ちがいい、バラバラな心と身体。ふと目が合った進は、いつかの優しい弟のままの顔でボクに微笑み掛けるのだった。それが引き金になったように、ボクは高ぶった熱を吐き出した。
「は、はあ…っ」
射精後の気怠さにぐったりと身体を折るも、進はどこ吹く風だ。ボクの吐き出す浅い息遣いだけが妙に響く中、進は知らん顔で手袋を外してそれをゴミ箱に放った。ボクの涙と唾液と体液が染み込んだ手袋だ。
手袋を外した進は、たいして乱れていない自身の衣服を正してさっさと部屋から出ていこうとする。素っ裸でいるボクとは対照的に、進の方はこの部屋にやってきた時のままの姿だ。
ベッドに腰かけた進が手袋を外した手で自身の服の裾を正し、襟を直す様をボクは黙って見つめていた。こんなことをしているのに、ボクはもうずいぶんと長らく進に触れていない。練習熱心で、マメだらけだった進の美しい掌は、今どんな風になっているのだろう。ごくりと生唾を飲み込む。
「じゃあね、兄さん」
こちらを振り返ることもなく部屋を出ていこうと立ち上がった進の服を掴むと、進は鬱陶しそうに眉を寄せてこちらを見るのだった。それを真正面で見つめ返しながら、ボクは掴んだ裾をそのままに進を思い切り引き倒してベッドに沈める。
ボクがそんなことをするとは夢にも思っていなかったらしい進は、無抵抗でされるがままだ。ぽかんと口を開くその顔は、幼少期によく見せたあどけない弟の表情そのもので、ボクは胸の奥のいちばん柔らかい部分を掴まれるような思いがした。
ぺろりと自身の唇を舐め、そっと進の唇と重ね合わせる。すぐに離し、驚いているらしい進の顔を眺めながら、もう一度。角度を変え、互いの唇の輪郭を味わう頃には、進はすっかり大人しくなってしまっていた。呆気にとられ何も言えないらしい進を横目に、ボクは先ほどゴミ箱に放られた手袋を拾い上げた。
「兄さん、どうして」
問いかけには答えず、ボクは静かに手袋を身に着けた。この手袋が何を合図にしているのかは、進、おまえがいちばんよく分かっていることだろう。
ボクらの夜はまだ、明けそうにない。
2019.6.23
ーーーーーーーーーーーー
三年前に完売しました同人誌より再掲でした。
当時お手に取ってくださった方々、どうもありがとうございました!
最近進守あんまり書いてないですが、やっぱりこの兄弟が大好きなのでまた書きたいですね
みなさんもかいてください、そして見せてください教えてください
はめられた手袋が行為の合図だった。
「なんだ…兄さんもしたかったんですね」
白い手袋をつけた進に頬を撫でられる。否定も肯定もせずに顔をそむけると、進はくすりと笑って鼻の頭に口付けた。下りてきたその唇は、ボクの唇と重なることは決してない。進は、こういった行為をする際に、キスだけは絶対にしないのだった。進の布越しの親指が、ボクの唇をなぞるようにして触れていく。
「今日の兄さんは、いつもより物欲しそうな顔をしていますね」
なにかあったんですか?尋ねながらも、進がこちらの答えなど初めから求めていないことはよく知っている。
進はボクの顔を見ることもなく、淡々とシャツのボタンを外していった。黙々とこなされるそれは単純に作業である。手袋をつけているのに器用なものだと思いながら、ボクは衣服を剥ぎ取っていく指先を黙って見つめていた。進とこういうことをするようになって、もう何度目になるだろう。
「う…」
何度繰り返されようと、幾度経験しようと、肌を這う布の感覚には慣れそうにもなかった。薄い絹の手袋だが、布一枚隔てているだけでこんなにも違う。進は行為の際、必ず手袋をつける。どうして進がそんなことをするのか自分は知らないし、そもそもいつからこんな行為を続けているのかも忘れてしまった。
分かっているのは、手袋をつけることが行為の始まる合図だということ、そして手袋をつけた進からは逃げられないということだ。
柔らかな布の感触が、胸のあたりをいったりきたりしている。それは突起を押したり摘まんだりとせわしなく、思わず眉を歪めて唇を引き結んだ。それを見た進は薄く笑むと、指を口の中に突っこんで乱暴にかき回した。喉の奥まで入れられたそれに思わず嘔吐く。噎せ返って体を折るも、進はやっぱり笑っていた。
「声、我慢しちゃダメって言ったでしょう。いけない兄さんですね」
「あっ…」
痛いほどに先端の突起を摘ままれる。己の唾液で濡れた手袋は冷たく、思わず声を上げていた。執拗にそこばかりを攻め立てられ、なんだか頭がぼんやりしてくる。体の奥から湧く確かな熱に絶望するも、仕立て上げられた身体はどこまでも進の愛撫に従順であり、抗う術がない。濡れた布が肌をこする快感はゾクゾクと背を這い、蝕むように全身へと広がっていく。
「兄さんって、乳首をいじられるの好きですよね」
「あ、あ…」
「こんなのが、そんなに気持ち良いんですか?」
「は、あ…」
「僕にはよく分かりませんけど」
いつものことだったが、ボクは進にこうされていると、だんだんわけが分からなくなってきてしまう。布越しの感覚がもどかしい、熱で浮かされているうちにそんなことを思うようになってしまう。直接触って欲しいと欲求が叫ぶたび、望まない行為にそんなことをねだるのはおかしいと理性が訴えかける。
「兄さん、何を考えているんですか?僕が目の前にいるのに、考え事?兄さんのそういうところが、僕」
大嫌いなんですよ。忌々し気に吐き捨てられた進の声は、やけにはっきりと響いた。目頭が熱くなって、鼻の奥がつんとする。上質なシーツを濡らすそれを見て、進は大きなため息をついた。
「なんで泣くんですか?」
そんなの分からない。ボクには分からないことばかりだ。ボクが答えないことに進は苛立っているようで、進はいつもより幾分か性急に、そして乱暴に衣服を剥ぎ取っていった。裸にされ、ベッドの上に投げ出される。
「兄さんって、つくづく変態ですよね」
すっかり勃起している中心を痛いほどに掴まれ、思わず声が漏れた。進の唇には薄い笑みが浮かんでいる。
「こんなことをされても、感じているんですからね」
進はそれを掴んだまま、今度はボクが快感を得るようにゆっくりといやらしく上下に扱いていった。粘着質な水音がぐちゃぐちゃと響いて、ボクの吐息と、興奮しているらしい進のそれが交わって耳の奥に溶けていった。何もわからないのに、いつだってもたらされる快楽に身体は正直で、ボクは逃れられない波に攫われていくような感覚に陥る。
乱暴な言動とは裏腹に、優しい手つきで愛撫を施す進に、ボクの身体は従順に高ぶっていく。やめてほしい、気持ちがいい、バラバラな心と身体。ふと目が合った進は、いつかの優しい弟のままの顔でボクに微笑み掛けるのだった。それが引き金になったように、ボクは高ぶった熱を吐き出した。
「は、はあ…っ」
射精後の気怠さにぐったりと身体を折るも、進はどこ吹く風だ。ボクの吐き出す浅い息遣いだけが妙に響く中、進は知らん顔で手袋を外してそれをゴミ箱に放った。ボクの涙と唾液と体液が染み込んだ手袋だ。
手袋を外した進は、たいして乱れていない自身の衣服を正してさっさと部屋から出ていこうとする。素っ裸でいるボクとは対照的に、進の方はこの部屋にやってきた時のままの姿だ。
ベッドに腰かけた進が手袋を外した手で自身の服の裾を正し、襟を直す様をボクは黙って見つめていた。こんなことをしているのに、ボクはもうずいぶんと長らく進に触れていない。練習熱心で、マメだらけだった進の美しい掌は、今どんな風になっているのだろう。ごくりと生唾を飲み込む。
「じゃあね、兄さん」
こちらを振り返ることもなく部屋を出ていこうと立ち上がった進の服を掴むと、進は鬱陶しそうに眉を寄せてこちらを見るのだった。それを真正面で見つめ返しながら、ボクは掴んだ裾をそのままに進を思い切り引き倒してベッドに沈める。
ボクがそんなことをするとは夢にも思っていなかったらしい進は、無抵抗でされるがままだ。ぽかんと口を開くその顔は、幼少期によく見せたあどけない弟の表情そのもので、ボクは胸の奥のいちばん柔らかい部分を掴まれるような思いがした。
ぺろりと自身の唇を舐め、そっと進の唇と重ね合わせる。すぐに離し、驚いているらしい進の顔を眺めながら、もう一度。角度を変え、互いの唇の輪郭を味わう頃には、進はすっかり大人しくなってしまっていた。呆気にとられ何も言えないらしい進を横目に、ボクは先ほどゴミ箱に放られた手袋を拾い上げた。
「兄さん、どうして」
問いかけには答えず、ボクは静かに手袋を身に着けた。この手袋が何を合図にしているのかは、進、おまえがいちばんよく分かっていることだろう。
ボクらの夜はまだ、明けそうにない。
2019.6.23
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三年前に完売しました同人誌より再掲でした。
当時お手に取ってくださった方々、どうもありがとうございました!
最近進守あんまり書いてないですが、やっぱりこの兄弟が大好きなのでまた書きたいですね
みなさんもかいてください、そして見せてください教えてください
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ねがいごと
ねがいごと(猪狩守)
弟が交通事故に遭ったのは、今から一週間ほど前のことだ。日にちの感覚が曖昧になっていて、いまいち判然としない。マナーモードにしていた携帯電話がポケットの中で震えて、見慣れない番号に首を傾げながら受話器ボタンを押した。確かに音は聞こえて来るのに、意味はよく理解出来なかった。振り仰いだ空が目に染みるほど青い。雲一つない快晴。よく晴れたある夏の日、進はトラックに轢かれた。
意識不明の重体であると告げられ、自分が病院に駆けつけた時にはもう、弟は集中治療室に入っていた。遅れて父と母もやって来たが、何を話してどんなやり取りをしたのかよく覚えていない。弟とは、今朝も普通に会って会話を交わした。それは覚えている。他愛のない話、進は笑っていて、あまりにいつも通り、普段通りの朝だった。それが、どうして。常ならば部活動でも顔を合わせるが、今日は監督が休みであるという理由から部活動は休みになっていた。進は買い物に出掛けると言っていた。兄さんも一緒にどうですか?いやいい、ボクはトレーニングがてらランニングしながら帰ることにするよ。あのとき、進の誘いに乗っていたら。そもそも部活動が休みになっていなければ。無数に湧く「もしも」が泡のように湧いては消えていく。
「兄さん、心配掛けて本当にごめんなさい」
そうやって笑う弟を見たのは、それから幾日も経ったあとのことだ。意識を取り戻してからの進の回復力にはめざましいものがあった。今では一般の病棟に移り、一人で身体を起こして話が出来るまでになっていた。笑う進に、黙っている自分。掛けられる言葉などあるはずもない。命は助かった。命だけは。
進はもう、野球が出来ない。医者がそう言うのだから、たぶんそうなんだろう。
今まで生きてきて、神さまに何かを願ったことなどない。一度もない。願いとは、自分の力で叶えるものだからだ。だからこれは、生まれて初めてする、ボクの一生のお願い。神さま、ボクの弟から野球を取らないでください。
進が病院からいなくなったのは、その次の日のことだ。
ーーーーーーーーー
♪今日は七夕なので短冊に吊るすお願いごとのつもりで書きました♪
そして出来上がったのがこちらになります
(進くんの交通事故話書きすぎ)
弟が交通事故に遭ったのは、今から一週間ほど前のことだ。日にちの感覚が曖昧になっていて、いまいち判然としない。マナーモードにしていた携帯電話がポケットの中で震えて、見慣れない番号に首を傾げながら受話器ボタンを押した。確かに音は聞こえて来るのに、意味はよく理解出来なかった。振り仰いだ空が目に染みるほど青い。雲一つない快晴。よく晴れたある夏の日、進はトラックに轢かれた。
意識不明の重体であると告げられ、自分が病院に駆けつけた時にはもう、弟は集中治療室に入っていた。遅れて父と母もやって来たが、何を話してどんなやり取りをしたのかよく覚えていない。弟とは、今朝も普通に会って会話を交わした。それは覚えている。他愛のない話、進は笑っていて、あまりにいつも通り、普段通りの朝だった。それが、どうして。常ならば部活動でも顔を合わせるが、今日は監督が休みであるという理由から部活動は休みになっていた。進は買い物に出掛けると言っていた。兄さんも一緒にどうですか?いやいい、ボクはトレーニングがてらランニングしながら帰ることにするよ。あのとき、進の誘いに乗っていたら。そもそも部活動が休みになっていなければ。無数に湧く「もしも」が泡のように湧いては消えていく。
「兄さん、心配掛けて本当にごめんなさい」
そうやって笑う弟を見たのは、それから幾日も経ったあとのことだ。意識を取り戻してからの進の回復力にはめざましいものがあった。今では一般の病棟に移り、一人で身体を起こして話が出来るまでになっていた。笑う進に、黙っている自分。掛けられる言葉などあるはずもない。命は助かった。命だけは。
進はもう、野球が出来ない。医者がそう言うのだから、たぶんそうなんだろう。
今まで生きてきて、神さまに何かを願ったことなどない。一度もない。願いとは、自分の力で叶えるものだからだ。だからこれは、生まれて初めてする、ボクの一生のお願い。神さま、ボクの弟から野球を取らないでください。
進が病院からいなくなったのは、その次の日のことだ。
ーーーーーーーーー
♪今日は七夕なので短冊に吊るすお願いごとのつもりで書きました♪
そして出来上がったのがこちらになります
(進くんの交通事故話書きすぎ)
jealousy
jealousy (5 /猪狩進と猪狩守と主人公)
「兄さん、何か良いことでもありましたか?」
声を掛けながら、兄の機嫌が良い理由についてはすでに思い当たることがあった。いつものようにランニングを終えて帰ってきた兄は足取りが軽く、ともすれば鼻歌でも歌いだしそうなほど上機嫌だった。
「べつに、たいしたことじゃない」
「パワプロさんに会ったんですか?」
冷蔵庫から取り出したスポーツドリンクを手渡しながらにっこりと尋ねる。受け取った兄は、さも驚いたように瞳を瞬いてから一口だけドリンクを飲んだ。どことなくばつが悪そうに視線を泳がせている。
「どうして、進が知ってるんだ」
「偶然ですね。僕も、今日パワプロさんに会ったんですよ」
へえ、とだけ声を漏らした兄は、興味がなさそうなふりをしている。何も言わずにいると、結局は我慢できなかったらしい兄の方から口を開いた。
「それで?」
「それでって?」
「パワプロのやつは、何か言っていたか。あいつ、今日はボクと勝負もせずに帰ってしまったんだ」
全く、せっかくこの天才猪狩守と勝負ができるチャンスだというのに。ぶつぶつと言いながら、兄は一気にスポーツドリンクを飲み干した。
「進は、どこで会ったんだ」
「街中ですよ。あの、新しくゲームセンターができた辺り。ついでにそのまま一緒に遊んできたんです」
「ゲームセンターで?」
「ええ」
兄は変な顔をしたまま固まっている。どうしてお前とパワプロが、とでも言い出しそうな雰囲気だ。
「勝負のつもりでお手合わせをお願いしたのに、結局は遊んでもらうだけになっちゃいました。パワプロさん、新しいゲームにも詳しくって」
「そんなところで遊んでいる暇があったら、練習でもしたらどうだ」
「でも、この前は一緒にバッティングセンターに行きましたからね。今日のはちょっとした息抜きですよ。今度会った時には、一緒に練習してもらえないかお願いしてみます」
ぽかんとした兄の顔。予想もしていなかったことを言われたとき、兄はこんな顔をするのか。半ば観察するような視点で、僕は兄を見ていた。なにせ、近頃の兄ときたら、彼の話ばかりするのだ。パワフル高校のパワプロさんと兄とは、たまたま道端でぶつかったことがきっかけで、河原で三球勝負をしてからの縁らしい。肩がぶつかっただけの初対面の人間と一体何をしているのか、初めは兄の言うことに懐疑的であったが、なるほど自分も実際に彼と会ってみてからは納得のいくところがあった。彼には、また会いたいと思わせる不思議な魅力があった。
それでも、兄が特定の人物について話をするのは珍しいことだ。兄は、他人のことなど全く構わない。さらに、野球に関することで誰かに興味を持つということは、僕にとっても興味深いことだった。
僕が彼に初めて会ったのは、兄とのロードワーク中のことだ。確かに、うっかり自転車でパワプロさんを轢いてしまったのは自分だったが、兄ときたらわざわざ戻って来てパワプロさんを踏んづけていったのだった。踏まれたパワプロさんはもちろん怒っていたが、兄は今までに見たことのない顔で嬉しそうに笑っていた。他人に対してあんな風に笑う兄を、僕は知らない。
それからというもの、不思議な縁で、僕もパワプロさんとはちょくちょく道端で出くわした。今日は進くんか、そんなことを言われる日もあったので、どうやら兄とも頻繁に出くわしているらしい。パワプロさんと兄がいつ会っているのかは、兄の様子を見ていれば一目瞭然だった。その日の兄は誰が見ても分かるほどの上機嫌だったし、何よりよく喋った。ただ、プライドの高い兄のこと、パワプロさんに会ったなどとは一言も言わなかった。
兄の視線を受けとめながら、僕は微笑む。じっと僕の顔を見ていただけの兄が、耐えられなくなったのかぽつりと一言だけ漏らした。
「よく、一緒にどこかへ行くのか」
「そうですね。次は別のところに遊びに行く約束をしました」
兄は複雑そうな顔をして、開きかけた口を結局そのまま閉じるのだった。パワプロさんは、いい人だ。それは、間違いない。一緒にいて楽しいし、今日までに彼の人の好さは十分すぎるほど伝わってきた。だけど、と思う。兄が気に掛けるに値するほど、果たしてそこまで価値のある人だろうか。兄の気を惹く魅力とは、一体どこにあるのだろう。兄があの人のどこをそんなに評価しているのか、僕にはまだ分からない。
「兄さん、僕、今日は先に休みますね」
まだ何か言いたそうな顔をしている兄を置いて、僕は踵を返して部屋へと戻った。初めは、ただ単に二人が一緒にいるのが面白くなかった。兄に妬いているのか、パワプロさんに妬いているのか、今ではもう分からない。そもそも妬く必要などあるのだろうか。分からない。後ろ手にドアを閉めて、僕はほんのひととき目を閉じた。
了
ーーーーーーーーーー
7年前に書いたやつをリメイクしてみたらこうなりました
7年て!
結局好きなツボは変わらんのだなと思いました
「兄さん、何か良いことでもありましたか?」
声を掛けながら、兄の機嫌が良い理由についてはすでに思い当たることがあった。いつものようにランニングを終えて帰ってきた兄は足取りが軽く、ともすれば鼻歌でも歌いだしそうなほど上機嫌だった。
「べつに、たいしたことじゃない」
「パワプロさんに会ったんですか?」
冷蔵庫から取り出したスポーツドリンクを手渡しながらにっこりと尋ねる。受け取った兄は、さも驚いたように瞳を瞬いてから一口だけドリンクを飲んだ。どことなくばつが悪そうに視線を泳がせている。
「どうして、進が知ってるんだ」
「偶然ですね。僕も、今日パワプロさんに会ったんですよ」
へえ、とだけ声を漏らした兄は、興味がなさそうなふりをしている。何も言わずにいると、結局は我慢できなかったらしい兄の方から口を開いた。
「それで?」
「それでって?」
「パワプロのやつは、何か言っていたか。あいつ、今日はボクと勝負もせずに帰ってしまったんだ」
全く、せっかくこの天才猪狩守と勝負ができるチャンスだというのに。ぶつぶつと言いながら、兄は一気にスポーツドリンクを飲み干した。
「進は、どこで会ったんだ」
「街中ですよ。あの、新しくゲームセンターができた辺り。ついでにそのまま一緒に遊んできたんです」
「ゲームセンターで?」
「ええ」
兄は変な顔をしたまま固まっている。どうしてお前とパワプロが、とでも言い出しそうな雰囲気だ。
「勝負のつもりでお手合わせをお願いしたのに、結局は遊んでもらうだけになっちゃいました。パワプロさん、新しいゲームにも詳しくって」
「そんなところで遊んでいる暇があったら、練習でもしたらどうだ」
「でも、この前は一緒にバッティングセンターに行きましたからね。今日のはちょっとした息抜きですよ。今度会った時には、一緒に練習してもらえないかお願いしてみます」
ぽかんとした兄の顔。予想もしていなかったことを言われたとき、兄はこんな顔をするのか。半ば観察するような視点で、僕は兄を見ていた。なにせ、近頃の兄ときたら、彼の話ばかりするのだ。パワフル高校のパワプロさんと兄とは、たまたま道端でぶつかったことがきっかけで、河原で三球勝負をしてからの縁らしい。肩がぶつかっただけの初対面の人間と一体何をしているのか、初めは兄の言うことに懐疑的であったが、なるほど自分も実際に彼と会ってみてからは納得のいくところがあった。彼には、また会いたいと思わせる不思議な魅力があった。
それでも、兄が特定の人物について話をするのは珍しいことだ。兄は、他人のことなど全く構わない。さらに、野球に関することで誰かに興味を持つということは、僕にとっても興味深いことだった。
僕が彼に初めて会ったのは、兄とのロードワーク中のことだ。確かに、うっかり自転車でパワプロさんを轢いてしまったのは自分だったが、兄ときたらわざわざ戻って来てパワプロさんを踏んづけていったのだった。踏まれたパワプロさんはもちろん怒っていたが、兄は今までに見たことのない顔で嬉しそうに笑っていた。他人に対してあんな風に笑う兄を、僕は知らない。
それからというもの、不思議な縁で、僕もパワプロさんとはちょくちょく道端で出くわした。今日は進くんか、そんなことを言われる日もあったので、どうやら兄とも頻繁に出くわしているらしい。パワプロさんと兄がいつ会っているのかは、兄の様子を見ていれば一目瞭然だった。その日の兄は誰が見ても分かるほどの上機嫌だったし、何よりよく喋った。ただ、プライドの高い兄のこと、パワプロさんに会ったなどとは一言も言わなかった。
兄の視線を受けとめながら、僕は微笑む。じっと僕の顔を見ていただけの兄が、耐えられなくなったのかぽつりと一言だけ漏らした。
「よく、一緒にどこかへ行くのか」
「そうですね。次は別のところに遊びに行く約束をしました」
兄は複雑そうな顔をして、開きかけた口を結局そのまま閉じるのだった。パワプロさんは、いい人だ。それは、間違いない。一緒にいて楽しいし、今日までに彼の人の好さは十分すぎるほど伝わってきた。だけど、と思う。兄が気に掛けるに値するほど、果たしてそこまで価値のある人だろうか。兄の気を惹く魅力とは、一体どこにあるのだろう。兄があの人のどこをそんなに評価しているのか、僕にはまだ分からない。
「兄さん、僕、今日は先に休みますね」
まだ何か言いたそうな顔をしている兄を置いて、僕は踵を返して部屋へと戻った。初めは、ただ単に二人が一緒にいるのが面白くなかった。兄に妬いているのか、パワプロさんに妬いているのか、今ではもう分からない。そもそも妬く必要などあるのだろうか。分からない。後ろ手にドアを閉めて、僕はほんのひととき目を閉じた。
了
ーーーーーーーーーー
7年前に書いたやつをリメイクしてみたらこうなりました
7年て!
結局好きなツボは変わらんのだなと思いました
月がきれいな夜に
月がきれいな夜に(猪狩守)
「あ、猪狩じゃん」
どうして、こんな日に出くわすのだろう。よりにもよって、こんな日に。今は何時になるのだろうか。夜、月明かりが頼りの河川敷で、その男は手を上げてボクを呼んだ。名前をパワプロといって、パワフル高校に通う野球部員であった。なんの偶然か、因果か、やたらと鉢合わせするのでそのたびに三球勝負をしている、ただそれだけの間柄だった。
「オレはコンビニ行ってきた帰りなんだけど。こんな時間に会うの、珍しいよな」
病院からの帰り道、疲れ切っていたボクは返事をする気にもならないで、そのまま黙っていた。パワプロは気にした様子もなく、無邪気に話しかけてくる。今日は暑いよな。そうだ、暑い、今日は特別に暑い日だった。日が暮れているにも関わらず妙に蒸し暑い、ぬるい風が頬を撫ぜていく。この暑さが、弟の集中力を奪ったのだろうか。
「…どうかしたのか?」
いい加減、黙ったままでいるボクの様子をおかしいと思ったのか、そんなことを言う。ボクは答えなかった。
弟が交通事故に遭った。数時間前のことだ。いつもと変わりなく、共に部活動をこなし、もう少し練習していくからと一人残ったボク、先に帰った弟、連絡を受けたボク、トラックに轢かれた弟。病院に駆け付けると、大型トラックに撥ねられたにも関わらず、弟は幸いにも意識があり、病院のベッドの上で身体を起こし、口をきくことが出来た。最悪の事態を想定していたボクは、静かに胸を撫で下ろした。
その後のことは、よく覚えていない。進の安否を確認して、ボクは気が抜けてしまったのかもしれない。また明日、そう言い合って、ボクは病室をあとにした。
「猪狩、泣いてるのか?」
そんなわけないだろう。そう言いたかったはずなのに、声にはならなかった。高校三年の、夏。もうまもなく夏の大会の予選が始まるところであった。そう思った瞬間、何かが堰を切ったように溢れ返った。止まらない。思いついたまま話す、時には支離滅裂のそれをパワプロは黙って聞いていた。暑いはずなのに背筋が妙に冷え、ボクは身震いをするように腕を掻き抱いた。弟は、もう、野球が出来ない。医者に言われた言葉を反芻して、ボクの話は終わった。
パワプロは何も言わなかった。生温い風が全身を撫ぜていく。月夜の晩、河川敷には二人きりだった。他に誰もいない取り残された世界で、ボクはもう一度だけ泣いた。
了
「あ、猪狩じゃん」
どうして、こんな日に出くわすのだろう。よりにもよって、こんな日に。今は何時になるのだろうか。夜、月明かりが頼りの河川敷で、その男は手を上げてボクを呼んだ。名前をパワプロといって、パワフル高校に通う野球部員であった。なんの偶然か、因果か、やたらと鉢合わせするのでそのたびに三球勝負をしている、ただそれだけの間柄だった。
「オレはコンビニ行ってきた帰りなんだけど。こんな時間に会うの、珍しいよな」
病院からの帰り道、疲れ切っていたボクは返事をする気にもならないで、そのまま黙っていた。パワプロは気にした様子もなく、無邪気に話しかけてくる。今日は暑いよな。そうだ、暑い、今日は特別に暑い日だった。日が暮れているにも関わらず妙に蒸し暑い、ぬるい風が頬を撫ぜていく。この暑さが、弟の集中力を奪ったのだろうか。
「…どうかしたのか?」
いい加減、黙ったままでいるボクの様子をおかしいと思ったのか、そんなことを言う。ボクは答えなかった。
弟が交通事故に遭った。数時間前のことだ。いつもと変わりなく、共に部活動をこなし、もう少し練習していくからと一人残ったボク、先に帰った弟、連絡を受けたボク、トラックに轢かれた弟。病院に駆け付けると、大型トラックに撥ねられたにも関わらず、弟は幸いにも意識があり、病院のベッドの上で身体を起こし、口をきくことが出来た。最悪の事態を想定していたボクは、静かに胸を撫で下ろした。
その後のことは、よく覚えていない。進の安否を確認して、ボクは気が抜けてしまったのかもしれない。また明日、そう言い合って、ボクは病室をあとにした。
「猪狩、泣いてるのか?」
そんなわけないだろう。そう言いたかったはずなのに、声にはならなかった。高校三年の、夏。もうまもなく夏の大会の予選が始まるところであった。そう思った瞬間、何かが堰を切ったように溢れ返った。止まらない。思いついたまま話す、時には支離滅裂のそれをパワプロは黙って聞いていた。暑いはずなのに背筋が妙に冷え、ボクは身震いをするように腕を掻き抱いた。弟は、もう、野球が出来ない。医者に言われた言葉を反芻して、ボクの話は終わった。
パワプロは何も言わなかった。生温い風が全身を撫ぜていく。月夜の晩、河川敷には二人きりだった。他に誰もいない取り残された世界で、ボクはもう一度だけ泣いた。
了
神様なんていないのに
神様なんていないのに(猪狩守)
ボクは、神という存在を信じていない。ボクが信じているのは、己の信念のみである。それは昔から今も変わらない。そうだというのに、その信じていないものに対して苛立ちを覚えるというのは、おかしな話であった。
弟が、事故に遭った。トラックに轢かれたのだ。ボクがそれを聞いたのは、日課であるランニングをして家に戻った後のことである。運転手の脇見運転。赤信号無視。意識不明の重体。そんな単語が次々とボクの中を通り抜けていった。それらのひとつも現実味を帯びていないというのに、集中治療室で今なお治療を受けている弟だけが現実であった。
ボクは、医者に尋ねた。「弟は、野球が出来ますか。」弟は、野球が好きなんです。二の句を飲み込んだボクに、医者の返答は無慈悲なものだった。
もしも。もしもどこかに存在しているというのならば、ボクは神に問う。進が一体なにをした。今朝も変わりなく日課のトレーニングをこなし、まもなく始まる夏季予選への準備に余念なく、幼い頃より共に切磋琢磨してきた弟が、誰よりも素直でまっすぐでひたむきに努力してきた弟が、ボクの弟が、一体なにをしたというのだ。
ボクは、神という存在を信じていない。それでも。信じていないはずのそれに、ボクは祈ってしまう、願ってしまう、思ってしまう。
弟から野球を、どうか取らないで。ボクから進を、取らないで。どうか。神様。
了
ーーーーーーー
解釈日替わり
ボクは、神という存在を信じていない。ボクが信じているのは、己の信念のみである。それは昔から今も変わらない。そうだというのに、その信じていないものに対して苛立ちを覚えるというのは、おかしな話であった。
弟が、事故に遭った。トラックに轢かれたのだ。ボクがそれを聞いたのは、日課であるランニングをして家に戻った後のことである。運転手の脇見運転。赤信号無視。意識不明の重体。そんな単語が次々とボクの中を通り抜けていった。それらのひとつも現実味を帯びていないというのに、集中治療室で今なお治療を受けている弟だけが現実であった。
ボクは、医者に尋ねた。「弟は、野球が出来ますか。」弟は、野球が好きなんです。二の句を飲み込んだボクに、医者の返答は無慈悲なものだった。
もしも。もしもどこかに存在しているというのならば、ボクは神に問う。進が一体なにをした。今朝も変わりなく日課のトレーニングをこなし、まもなく始まる夏季予選への準備に余念なく、幼い頃より共に切磋琢磨してきた弟が、誰よりも素直でまっすぐでひたむきに努力してきた弟が、ボクの弟が、一体なにをしたというのだ。
ボクは、神という存在を信じていない。それでも。信じていないはずのそれに、ボクは祈ってしまう、願ってしまう、思ってしまう。
弟から野球を、どうか取らないで。ボクから進を、取らないで。どうか。神様。
了
ーーーーーーー
解釈日替わり
meaning
meaning(猪狩兄弟)
「兄さん、ちょっと味見をしてもらえませんか?」
年が明けて正月、元旦だろうといつも通りトレーニングのウォーミングアップを終えて自宅に戻ると、ちょうど弟と出くわした。エプロンを付けているその出で立ちを見るに、料理をしていたのだろう。弟は、野球も勉強も料理も出来る。
「お夕飯に、母さんとおせちを作ったんですけど、初めて作るものばかりで自信がないので、兄さんに味をみてもらいたいんです」
「ああ、いいよ。でも、母さんと作ったんだろう?」
「ふふ、母さんは何を食べても「美味しい」になっちゃいますから」
「確かに」
2人で笑いながら長い廊下を歩く。ボクたち兄弟、ことさら進には甘い母の反応は見なくても目に浮かぶようで、ボクたちは顔を見合わせて笑った。
「どうぞ。口に合えばいいですけど」
「いただくよ」
キッチンというよりは厨房と表現した方が良いそこへ到着し、進から箸を渡される。色とりどりのそれらに感心しながら、ボクは静かに箸を付けた。
「どうですか?」
「ああ、どれもおいしいよ。ほとんど、進が作ったんだろう」
「母さんにも手伝ってもらいましたよ」
一皿ずつ少しずつ食べ進め、お世辞抜きにしてどれも初めて作ったとは思えないくらいに美味しかった。我が弟ながらしみじみと感心してしまう。
「兄さん、おせち料理の意味って知ってますか?」
「意味?」
「例えば、れんこん。穴が多く空いていて先がよく見えることから、見通しの良い1年を祈るという意味が込められているんですよ」
「へえ、なるほど。知らなかったよ」
「伊達巻きは、巻物の形をしていることから学問が成就するように、筑前煮は、根菜類と鶏肉を一緒に煮ることから家族が仲良く一緒に結ばれるように」
「詳しいんだな」
「レシピを調べるときに、一緒に書いてあって覚えちゃいました。おもしろいですよね」
「あ、数の子もあるんだな。ひとつもらおう」
進に取ってもらって、ボクはもぐもぐと数の子を食べた。醤油もなにも付けないでそのまま食べるのが好きだった。正月に食べる数の子はなんとなく特別で美味しい気がして、ボクはもうひとつ食べようかと箸を伸ばした。
「兄さん、数の子の意味は知ってます?」
「うーん、知らないな」
口を動かすのに忙しいボクを見てにこにこと微笑みながら進は言う。それはさながら天使の微笑み。
「とてもたくさんの卵が付いていることから、子孫繁栄の意味があるんですよ。そして、子宝成就」
「んっ!?」
唐突に頬に触れた進に驚いて、ボクは大袈裟に反応してしまった。それでもにこにこと笑っている進は先程と寸分も様子が違わない。
「口元、付いてましたよ」
「あ、ああ、ありがとう」
「兄さんに食べてもらって自信が付きました。お夕飯、楽しみにしててくださいね」
「じゃあ、あとで」そう言った弟は今日いちばんの笑顔で微笑むのであった。無意識に、先程弟の指が撫でていった場所に手を当てていた。頬が熱いのはトレーニング後のせいだと言い聞かせ、ボクはシャワーを浴びるべく浴室へ向かうのだった。
ーーーーーーーーーーーーー
新年明けましておめでとうございます!
本年もゆっくりぱわぷろしていく所存ですので、何卒よろしくお願いします^^
また、6月に開催されるぱわぷろオンリーにも参加する予定でおります!
改めてお知らせいたしますので、こちらもよろしくお願いしますー!
「兄さん、ちょっと味見をしてもらえませんか?」
年が明けて正月、元旦だろうといつも通りトレーニングのウォーミングアップを終えて自宅に戻ると、ちょうど弟と出くわした。エプロンを付けているその出で立ちを見るに、料理をしていたのだろう。弟は、野球も勉強も料理も出来る。
「お夕飯に、母さんとおせちを作ったんですけど、初めて作るものばかりで自信がないので、兄さんに味をみてもらいたいんです」
「ああ、いいよ。でも、母さんと作ったんだろう?」
「ふふ、母さんは何を食べても「美味しい」になっちゃいますから」
「確かに」
2人で笑いながら長い廊下を歩く。ボクたち兄弟、ことさら進には甘い母の反応は見なくても目に浮かぶようで、ボクたちは顔を見合わせて笑った。
「どうぞ。口に合えばいいですけど」
「いただくよ」
キッチンというよりは厨房と表現した方が良いそこへ到着し、進から箸を渡される。色とりどりのそれらに感心しながら、ボクは静かに箸を付けた。
「どうですか?」
「ああ、どれもおいしいよ。ほとんど、進が作ったんだろう」
「母さんにも手伝ってもらいましたよ」
一皿ずつ少しずつ食べ進め、お世辞抜きにしてどれも初めて作ったとは思えないくらいに美味しかった。我が弟ながらしみじみと感心してしまう。
「兄さん、おせち料理の意味って知ってますか?」
「意味?」
「例えば、れんこん。穴が多く空いていて先がよく見えることから、見通しの良い1年を祈るという意味が込められているんですよ」
「へえ、なるほど。知らなかったよ」
「伊達巻きは、巻物の形をしていることから学問が成就するように、筑前煮は、根菜類と鶏肉を一緒に煮ることから家族が仲良く一緒に結ばれるように」
「詳しいんだな」
「レシピを調べるときに、一緒に書いてあって覚えちゃいました。おもしろいですよね」
「あ、数の子もあるんだな。ひとつもらおう」
進に取ってもらって、ボクはもぐもぐと数の子を食べた。醤油もなにも付けないでそのまま食べるのが好きだった。正月に食べる数の子はなんとなく特別で美味しい気がして、ボクはもうひとつ食べようかと箸を伸ばした。
「兄さん、数の子の意味は知ってます?」
「うーん、知らないな」
口を動かすのに忙しいボクを見てにこにこと微笑みながら進は言う。それはさながら天使の微笑み。
「とてもたくさんの卵が付いていることから、子孫繁栄の意味があるんですよ。そして、子宝成就」
「んっ!?」
唐突に頬に触れた進に驚いて、ボクは大袈裟に反応してしまった。それでもにこにこと笑っている進は先程と寸分も様子が違わない。
「口元、付いてましたよ」
「あ、ああ、ありがとう」
「兄さんに食べてもらって自信が付きました。お夕飯、楽しみにしててくださいね」
「じゃあ、あとで」そう言った弟は今日いちばんの笑顔で微笑むのであった。無意識に、先程弟の指が撫でていった場所に手を当てていた。頬が熱いのはトレーニング後のせいだと言い聞かせ、ボクはシャワーを浴びるべく浴室へ向かうのだった。
ーーーーーーーーーーーーー
新年明けましておめでとうございます!
本年もゆっくりぱわぷろしていく所存ですので、何卒よろしくお願いします^^
また、6月に開催されるぱわぷろオンリーにも参加する予定でおります!
改めてお知らせいたしますので、こちらもよろしくお願いしますー!
アラート
猪狩兄弟
「兄さん、何か良いことでもあったんですか?」
声を掛けながらも、兄の機嫌が良い理由について本当はもうすでに知っていた。いつものように練習後のランニングを終えて帰ってきた兄は足取りが軽く、ともすれば鼻歌でも歌いだしそうなほど上機嫌だった。首から下げたタオルを触りながら兄はいつもの調子で言う。
「べつに、たいしたことじゃないけどね」
「パワプロさんに会ったんですか?」
冷蔵庫から取り出したスポーツドリンクを手渡しながらにっこりと尋ねる。差し出されたそれを受け取った兄は、さも驚いたように瞳を瞬いてから一口だけドリンクを飲んだ。どことなくばつが悪そうに視線を泳がせている。
「なんで進が知ってるんだ?」
「僕も今日パワプロさんに会ったんですよ」
一呼吸おいてから、へえ、それは偶然だなと適当な相槌を打って兄は知らん顔をしている。興味がなさそうなふりをしているが、本当は話の続きを聞きたくてうずうずしているのがすぐに分かった。わざと何も言わずにいると、結局は我慢できなかったらしい兄の方から口を開いた。
「それで?」
「それでって?」
「パワプロのやつは、何か言っていたか。あいつ、今日は僕と勝負もせずにすぐ帰ってしまったんだ」
全く、せっかくこの天才猪狩守と勝負ができるチャンスだというのに。ぶつぶつと言いながら今度は一気にスポーツドリンクを飲み干してしまった。ぷは、と息をつきながら再び僕に尋ねる。
「進は、どこで会ったんだ?」
「街中ですよ。あの、新しくゲームセンターができた辺り。ついでにそのまま一緒に遊んできたんです」
「…ゲームセンターで?」
「ええ」
兄は変な顔をしたまま固まっている。どうしてお前とパワプロがと今にも言い出しそうな雰囲気だ。そんな兄を尻目に僕は話を続けた。
「ふふ。勝負のつもりでお手合わせをお願いしたのに、結局は遊んでもらうだけになっちゃいました。パワプロさん、新しいゲームにも詳しくって」
「…ゲームセンターで遊んでいる暇があったら、練習したらどうだ」
「でも、この前は一緒にバッティングセンターに行きましたからね。今日のはちょっと息抜きですよ。今度会った時には、一緒に練習してもらえないかお願いしてみます」
兄さん、シャワーいきますよね?ポカンと呆けている兄に声を掛けて、空のペットボトルを受け取った。いまいち状況が飲み込めていないらしい兄は相変わらず変な顔をしている。あまりにも予想通り過ぎる反応に、僕は笑いを噛み殺すのに精いっぱいだった。
近頃の兄ときたら、パワプロさんの話ばかりする。道端でぶつかってきたやつと河原で勝負をしてきたなどというものだから、初めこそ一体何の事かと思ったものだ。兄が突拍子もないことをして周りに迷惑を掛けるのはいつものことだったので、僕はまたその類のことだと思って気を揉んでいた。僕が気を揉んでも兄の態度は変わらないのだが、こればっかりは仕方がない。昔からの癖みたいなものだ。
兄が特定の人物について話をするのは珍しいことだった。他人のことなど全く構わない兄が、野球にまつわることで誰かを注視しているという事実は僕にとっても興味深いことだった。一体どんな人間だろうと僕はずっと気にしていた。
そんな折、兄とのロードワーク中に出くわしたのが、その人だった。パワフル高校のパワプロさんというらしい。あのときの兄の様子は忘れない。初めに自転車でパワプロさんを轢いてしまったのは確かに自分だったが、兄ときたらわざわざ戻って来てパワプロさんを踏んづけていったのだ。踏まれたパワプロさんはもちろん怒っていたが、兄はこれ以上ないほど楽しそうに笑っていた。
他人に対してあんな風に笑う兄を、僕は見たことがない。おもちゃを見つけた子供のようでもあったし、気になる子をいじめる小学生のようでもあった。ああ、兄はこの人が好きなのだなと、僕はすぐに思った。
それからというもの、不思議なことにパワプロさんとはちょくちょく道端で出くわした。向こうもそのように言っていたから、何か不思議な縁でもあるのかもしれない。今日は進くんか、そのように言われる日もあったので、どうやら兄とも頻繁に出くわしているらしい。どうやらオレは君たち兄弟と変な縁があるらしいよ、とはパワプロさんの言である。
パワプロさんと兄がいつ会っているのかは、兄の様子を見ていれば一目瞭然だった。見てすぐ分かるほど兄は上機嫌だったし、いつも以上によくしゃべった。ただプライドの高い兄のこと、パワプロさんと会ったなどとは一言も言ったことがない。だから、僕も言わなかった。パワプロさんのことを話したのは、正真正銘今日が初めてのことだった。
刺さるような兄の視線を受けとめて、にこにこと微笑む。じっと僕の顔を見ていただけの兄が、耐えられなくなったのかぽつりと言葉を漏らした。
「よく、一緒にどこかへ行くのか」
「まあ、そうですね。パワプロさんっていろんなことに詳しいから、僕はいろいろ教えてもらってるんですよ」
兄は複雑そうな顔をして、何かを言いたそうにしては口をつぐんだ。この顔が見たかったはずなのに、僕の胸の内のもやもやは晴れるばかりか一向に募るばかりである。おかしな感じだ。
パワプロさんは、いい人だ。一緒にいて楽しいし、何度か時間を過ごして彼の人の好さというのは十分すぎるほど伝わってきた。だけど、と思う。兄が気に掛けるに値するほど、果たしてそこまで価値のある人だろうか。兄の気を惹く魅力とは、一体どこにあるのだろうか。兄があの人のどこをそんなに評価しているのか、僕にはまだ分からないのだった。
それと同時に、兄のような人にパワプロさんはもったいないとも思う。あんなにいい人を兄のわがままで振り回してしまうのは気の毒だと感じるのだ。
「兄さん、僕今日は先に休みますね」
まだ何か言いたそうな顔をしている兄を置いて、僕は踵を返して部屋へと戻った。
初めは、ただ単に二人が一緒にいるのが面白くなかった。兄に妬いているのか、パワプロさんに妬いているのか、今ではもう分からない。そもそも妬く必要などあるのだろうか。
後ろ手にドアを閉めて、僕はほんのひととき目を閉じた。
――――――――――――
5は守さんとの勝負はもちろんのこと、進くんとゲーセン行ったりバッセン行ったり河原までかけっこしたり
極めつけは「兄さんは、いつもパワプロさんのことを ぐふっ!」「弟よ、よけいなことは言わなくてもよろしい。」
兄弟と主人公の絡みがかわいい~ってことを書きたかったはずなのにこの進はとても性格が悪いですね。趣味ですね
「兄さん、何か良いことでもあったんですか?」
声を掛けながらも、兄の機嫌が良い理由について本当はもうすでに知っていた。いつものように練習後のランニングを終えて帰ってきた兄は足取りが軽く、ともすれば鼻歌でも歌いだしそうなほど上機嫌だった。首から下げたタオルを触りながら兄はいつもの調子で言う。
「べつに、たいしたことじゃないけどね」
「パワプロさんに会ったんですか?」
冷蔵庫から取り出したスポーツドリンクを手渡しながらにっこりと尋ねる。差し出されたそれを受け取った兄は、さも驚いたように瞳を瞬いてから一口だけドリンクを飲んだ。どことなくばつが悪そうに視線を泳がせている。
「なんで進が知ってるんだ?」
「僕も今日パワプロさんに会ったんですよ」
一呼吸おいてから、へえ、それは偶然だなと適当な相槌を打って兄は知らん顔をしている。興味がなさそうなふりをしているが、本当は話の続きを聞きたくてうずうずしているのがすぐに分かった。わざと何も言わずにいると、結局は我慢できなかったらしい兄の方から口を開いた。
「それで?」
「それでって?」
「パワプロのやつは、何か言っていたか。あいつ、今日は僕と勝負もせずにすぐ帰ってしまったんだ」
全く、せっかくこの天才猪狩守と勝負ができるチャンスだというのに。ぶつぶつと言いながら今度は一気にスポーツドリンクを飲み干してしまった。ぷは、と息をつきながら再び僕に尋ねる。
「進は、どこで会ったんだ?」
「街中ですよ。あの、新しくゲームセンターができた辺り。ついでにそのまま一緒に遊んできたんです」
「…ゲームセンターで?」
「ええ」
兄は変な顔をしたまま固まっている。どうしてお前とパワプロがと今にも言い出しそうな雰囲気だ。そんな兄を尻目に僕は話を続けた。
「ふふ。勝負のつもりでお手合わせをお願いしたのに、結局は遊んでもらうだけになっちゃいました。パワプロさん、新しいゲームにも詳しくって」
「…ゲームセンターで遊んでいる暇があったら、練習したらどうだ」
「でも、この前は一緒にバッティングセンターに行きましたからね。今日のはちょっと息抜きですよ。今度会った時には、一緒に練習してもらえないかお願いしてみます」
兄さん、シャワーいきますよね?ポカンと呆けている兄に声を掛けて、空のペットボトルを受け取った。いまいち状況が飲み込めていないらしい兄は相変わらず変な顔をしている。あまりにも予想通り過ぎる反応に、僕は笑いを噛み殺すのに精いっぱいだった。
近頃の兄ときたら、パワプロさんの話ばかりする。道端でぶつかってきたやつと河原で勝負をしてきたなどというものだから、初めこそ一体何の事かと思ったものだ。兄が突拍子もないことをして周りに迷惑を掛けるのはいつものことだったので、僕はまたその類のことだと思って気を揉んでいた。僕が気を揉んでも兄の態度は変わらないのだが、こればっかりは仕方がない。昔からの癖みたいなものだ。
兄が特定の人物について話をするのは珍しいことだった。他人のことなど全く構わない兄が、野球にまつわることで誰かを注視しているという事実は僕にとっても興味深いことだった。一体どんな人間だろうと僕はずっと気にしていた。
そんな折、兄とのロードワーク中に出くわしたのが、その人だった。パワフル高校のパワプロさんというらしい。あのときの兄の様子は忘れない。初めに自転車でパワプロさんを轢いてしまったのは確かに自分だったが、兄ときたらわざわざ戻って来てパワプロさんを踏んづけていったのだ。踏まれたパワプロさんはもちろん怒っていたが、兄はこれ以上ないほど楽しそうに笑っていた。
他人に対してあんな風に笑う兄を、僕は見たことがない。おもちゃを見つけた子供のようでもあったし、気になる子をいじめる小学生のようでもあった。ああ、兄はこの人が好きなのだなと、僕はすぐに思った。
それからというもの、不思議なことにパワプロさんとはちょくちょく道端で出くわした。向こうもそのように言っていたから、何か不思議な縁でもあるのかもしれない。今日は進くんか、そのように言われる日もあったので、どうやら兄とも頻繁に出くわしているらしい。どうやらオレは君たち兄弟と変な縁があるらしいよ、とはパワプロさんの言である。
パワプロさんと兄がいつ会っているのかは、兄の様子を見ていれば一目瞭然だった。見てすぐ分かるほど兄は上機嫌だったし、いつも以上によくしゃべった。ただプライドの高い兄のこと、パワプロさんと会ったなどとは一言も言ったことがない。だから、僕も言わなかった。パワプロさんのことを話したのは、正真正銘今日が初めてのことだった。
刺さるような兄の視線を受けとめて、にこにこと微笑む。じっと僕の顔を見ていただけの兄が、耐えられなくなったのかぽつりと言葉を漏らした。
「よく、一緒にどこかへ行くのか」
「まあ、そうですね。パワプロさんっていろんなことに詳しいから、僕はいろいろ教えてもらってるんですよ」
兄は複雑そうな顔をして、何かを言いたそうにしては口をつぐんだ。この顔が見たかったはずなのに、僕の胸の内のもやもやは晴れるばかりか一向に募るばかりである。おかしな感じだ。
パワプロさんは、いい人だ。一緒にいて楽しいし、何度か時間を過ごして彼の人の好さというのは十分すぎるほど伝わってきた。だけど、と思う。兄が気に掛けるに値するほど、果たしてそこまで価値のある人だろうか。兄の気を惹く魅力とは、一体どこにあるのだろうか。兄があの人のどこをそんなに評価しているのか、僕にはまだ分からないのだった。
それと同時に、兄のような人にパワプロさんはもったいないとも思う。あんなにいい人を兄のわがままで振り回してしまうのは気の毒だと感じるのだ。
「兄さん、僕今日は先に休みますね」
まだ何か言いたそうな顔をしている兄を置いて、僕は踵を返して部屋へと戻った。
初めは、ただ単に二人が一緒にいるのが面白くなかった。兄に妬いているのか、パワプロさんに妬いているのか、今ではもう分からない。そもそも妬く必要などあるのだろうか。
後ろ手にドアを閉めて、僕はほんのひととき目を閉じた。
――――――――――――
5は守さんとの勝負はもちろんのこと、進くんとゲーセン行ったりバッセン行ったり河原までかけっこしたり
極めつけは「兄さんは、いつもパワプロさんのことを ぐふっ!」「弟よ、よけいなことは言わなくてもよろしい。」
兄弟と主人公の絡みがかわいい~ってことを書きたかったはずなのにこの進はとても性格が悪いですね。趣味ですね
欠落したバッドエンド
猪狩兄弟
病院のベッドに横たわる弟の顔を眺めて、今日で一週間になる。
先程まで一緒に見舞っていた父と母は先に帰ってしまった。自分も練習に戻らなくてはいけないが、足は病室に縫いとめられたまま動かない。
いよいよ夏の地方予選が始まる大切な時期だ。最後の夏。負ければそこで終わり、勝ってこそ次の一歩を進むことが許される。
何事もなかったかのように綺麗な顔で横たわっている弟の顔を眺める。これだけ見ていると、まるで昼寝でもしているようだ。トラックに轢かれ、ついこの間まで生死をさまよっていた人間の顔とは夢にも思えない。
夢。この一週間で、何度も頭を駆け巡った単語だ。自分は夢をみているのではないか、どうか夢であってほしい、幾度そのように願っただろう。
今まで生きてきて、こんな気持ちになったことはない。夢という言葉を、己の将来を語る以外の用途で使ったことがなかった。
何をするでもなく時間が過ぎていく。壁に掛けられた時計がカチカチと音を立て、座っている体勢を入れ替えると安っぽいパイプ椅子がぎいと鳴いた。
事故現場からいちばん近い病院がここだった。もっと設備の良い病院をと思うのだが、一命を取り留め意識の回復を待つだけとなった今、本人が目を覚まし次第転院する手筈となっていた。
思い返せば、弟の顔をここまでまじまじと眺めたのはこれが初めてだった。周囲の人間は、よく自分たち兄弟のことをそっくりだと言って形容するが、見れば見るほどにそうは思えなくて困惑を覚える。
よく見知った、進の顔だ。それ以上でもそれ以下でもない。
一瞬、弟の睫毛が震えたような気がして目を見張ったが、しばらくしても変化のない様子に、どうやら自分の吐き出した息のせいらしいと知る。
濃く透き通った紫は瞼の下に隠れたまま、この一週間一度も見ていない。
立ち上がり、パイプ椅子を畳んだ。
病室から出る前にもう一度だけ弟の顔を振り返り、ボクは約束をする。
言うまでもないことだった。それでもわざわざ口に出さずにはいられなかった自分の弱さを反省し、ボクはいよいよ病室を後にした。
+++
寝たふりをしようと思っていたわけではない。
目を開けて、一体何を言えばいいのか、どんな顔をすればいいのか分からなかった。
頭の上で、父と母がせわしなく会話を交わしている。父が「守」と言って呼びかけたので、そこに兄も一緒にいることを知った。家族が4人揃うことなど、一体いつ以来であろうか。ますますどうしたら良いのか分からない。
父と母がいる間、兄は一言も喋らなかった。
いちばん初めに目が覚めたのは、今日の深夜のことだ。
焼けるような胸の痛みと、節々を襲う鈍痛に自然と顔が歪んだ。一体何事だろうと起き上がりたいのに体を動かすことはできない。
意識を取り戻した当初、僕は軽いパニック状態であった。
動かない身体、エタノールの消毒の匂い、お世辞にも寝心地がいいとはいえないベッド。病院だった。トラックに撥ねられた瞬間を思い出して思わず目をつむる。視界がクリアになるにつれて、頭の中を取り巻いていた靄も徐々に晴れてくる。
僕はトラックに撥ねられて、この病院まで搬送されてきた。
そうして次に目が覚めたのは、日が傾き始めた夕方のことだった。カーテンの隙間から仄明るい夕日が差し込んでいた。先ほどまで深夜だったというのにもうこんな時間とは、どうやら自分は随分と眠っていたらしい。首だけ回して部屋の中を見渡す。机の上には花瓶が置いてあり、そこには一輪だけ花が活けてあった。花の名前は思い出せなかった。
何をするでもなく天井をぼんやりと眺める。
やはり体を動かすことはできず、何もしていないのにそこらじゅうが痛んだ。
瞬きをすると目じりの辺りを冷たいものが伝っていったが、痛みのせいではない。誰に何を言われなくても、野球ができないことは明白だった。完治するには随分時間がかかるだろう。野球ができるようになるまでには、もっと時間がかかることだろう。あるいはもう、一生そのようなことは叶わないのかもしれない。
まとまらない思考の中で、目の前に迫るトラックとクラクション、周囲の叫び声だけが頭の中を回った。必死の形相でこちらに駆け寄ろうとする兄の顔。何か叫んでいた。悲鳴が聞こえて、そこで記憶は途切れた。
3人が病室にやってきたのは、そんなことを考えている時だった。どうしようかと思っている間に、父と母は帰ってしまった。父が多忙なのは昔からであったし、母の体調は最近あまり芳しくない。外に出たのも久しぶりだったのではないだろうか。
兄だけが、病室にまだ残っているようであった。
時計の秒針がカチカチと進む音と、時折ぎいと鳴くそれはどうやらパイプ椅子の音らしい。それ以外は一切何の音も聞こえずに静かだった。兄は、ベッドの前にパイプ椅子を出してそこに腰かけているようだ。一体何をしているのだろうか。目を開けて確認する勇気はない。
やがて人の立ち上がる気配がして、ガチャガチャと金属音が鳴った。どうやら椅子を片づけて帰ることにしたらしい。とうとう兄は、この病室に訪れてから一言も口をきかなかった。
ガチャリとドアノブの回る音がして、自然と体の力が抜けるのが分かった。
兄の声が聞こえたのは、そのときだった。
必ず、優勝旗を持ち帰る。
パタリとドアの閉まる音。
ぱかりと目を開けて、ドアの方に視線を向ける。目の奥が熱く、喉は焼け付くようだった。頭の中はぐらぐらと煮えている。
そんなことは望んでいないと叫びたかった。
兄が何を思ってそのようなことを言ったのか胸中は知れないが、僕自身そんなことはこれっぽっちも望んでいないことだった。だって、そうだろう、優勝旗は持ってきてもらうものではない、自分の手で掴み取るものだ。
優勝旗を掴んで笑う兄を想像すると、どうしようもなく苦いものが胸の内に広がった。兄ならば、やってのけるだろう。優勝旗を持って、高らかに笑うのだろう。僕は、それを見ているのか。こんなところで、見ていなければならないのか。
ただ、野球がしたかった。兄の隣で、チームメイトの傍らで、野球がしたかった。
ただそれだけのことが今はもう随分と遠い。
僕は、野球がしたい。
ノックの音が聞こえたのは、そのときだった。
――――――――
5/9/ポケ1がごちゃまぜ
いつかマスクさんのお話をちゃんと書いてみたいの
病院のベッドに横たわる弟の顔を眺めて、今日で一週間になる。
先程まで一緒に見舞っていた父と母は先に帰ってしまった。自分も練習に戻らなくてはいけないが、足は病室に縫いとめられたまま動かない。
いよいよ夏の地方予選が始まる大切な時期だ。最後の夏。負ければそこで終わり、勝ってこそ次の一歩を進むことが許される。
何事もなかったかのように綺麗な顔で横たわっている弟の顔を眺める。これだけ見ていると、まるで昼寝でもしているようだ。トラックに轢かれ、ついこの間まで生死をさまよっていた人間の顔とは夢にも思えない。
夢。この一週間で、何度も頭を駆け巡った単語だ。自分は夢をみているのではないか、どうか夢であってほしい、幾度そのように願っただろう。
今まで生きてきて、こんな気持ちになったことはない。夢という言葉を、己の将来を語る以外の用途で使ったことがなかった。
何をするでもなく時間が過ぎていく。壁に掛けられた時計がカチカチと音を立て、座っている体勢を入れ替えると安っぽいパイプ椅子がぎいと鳴いた。
事故現場からいちばん近い病院がここだった。もっと設備の良い病院をと思うのだが、一命を取り留め意識の回復を待つだけとなった今、本人が目を覚まし次第転院する手筈となっていた。
思い返せば、弟の顔をここまでまじまじと眺めたのはこれが初めてだった。周囲の人間は、よく自分たち兄弟のことをそっくりだと言って形容するが、見れば見るほどにそうは思えなくて困惑を覚える。
よく見知った、進の顔だ。それ以上でもそれ以下でもない。
一瞬、弟の睫毛が震えたような気がして目を見張ったが、しばらくしても変化のない様子に、どうやら自分の吐き出した息のせいらしいと知る。
濃く透き通った紫は瞼の下に隠れたまま、この一週間一度も見ていない。
立ち上がり、パイプ椅子を畳んだ。
病室から出る前にもう一度だけ弟の顔を振り返り、ボクは約束をする。
言うまでもないことだった。それでもわざわざ口に出さずにはいられなかった自分の弱さを反省し、ボクはいよいよ病室を後にした。
+++
寝たふりをしようと思っていたわけではない。
目を開けて、一体何を言えばいいのか、どんな顔をすればいいのか分からなかった。
頭の上で、父と母がせわしなく会話を交わしている。父が「守」と言って呼びかけたので、そこに兄も一緒にいることを知った。家族が4人揃うことなど、一体いつ以来であろうか。ますますどうしたら良いのか分からない。
父と母がいる間、兄は一言も喋らなかった。
いちばん初めに目が覚めたのは、今日の深夜のことだ。
焼けるような胸の痛みと、節々を襲う鈍痛に自然と顔が歪んだ。一体何事だろうと起き上がりたいのに体を動かすことはできない。
意識を取り戻した当初、僕は軽いパニック状態であった。
動かない身体、エタノールの消毒の匂い、お世辞にも寝心地がいいとはいえないベッド。病院だった。トラックに撥ねられた瞬間を思い出して思わず目をつむる。視界がクリアになるにつれて、頭の中を取り巻いていた靄も徐々に晴れてくる。
僕はトラックに撥ねられて、この病院まで搬送されてきた。
そうして次に目が覚めたのは、日が傾き始めた夕方のことだった。カーテンの隙間から仄明るい夕日が差し込んでいた。先ほどまで深夜だったというのにもうこんな時間とは、どうやら自分は随分と眠っていたらしい。首だけ回して部屋の中を見渡す。机の上には花瓶が置いてあり、そこには一輪だけ花が活けてあった。花の名前は思い出せなかった。
何をするでもなく天井をぼんやりと眺める。
やはり体を動かすことはできず、何もしていないのにそこらじゅうが痛んだ。
瞬きをすると目じりの辺りを冷たいものが伝っていったが、痛みのせいではない。誰に何を言われなくても、野球ができないことは明白だった。完治するには随分時間がかかるだろう。野球ができるようになるまでには、もっと時間がかかることだろう。あるいはもう、一生そのようなことは叶わないのかもしれない。
まとまらない思考の中で、目の前に迫るトラックとクラクション、周囲の叫び声だけが頭の中を回った。必死の形相でこちらに駆け寄ろうとする兄の顔。何か叫んでいた。悲鳴が聞こえて、そこで記憶は途切れた。
3人が病室にやってきたのは、そんなことを考えている時だった。どうしようかと思っている間に、父と母は帰ってしまった。父が多忙なのは昔からであったし、母の体調は最近あまり芳しくない。外に出たのも久しぶりだったのではないだろうか。
兄だけが、病室にまだ残っているようであった。
時計の秒針がカチカチと進む音と、時折ぎいと鳴くそれはどうやらパイプ椅子の音らしい。それ以外は一切何の音も聞こえずに静かだった。兄は、ベッドの前にパイプ椅子を出してそこに腰かけているようだ。一体何をしているのだろうか。目を開けて確認する勇気はない。
やがて人の立ち上がる気配がして、ガチャガチャと金属音が鳴った。どうやら椅子を片づけて帰ることにしたらしい。とうとう兄は、この病室に訪れてから一言も口をきかなかった。
ガチャリとドアノブの回る音がして、自然と体の力が抜けるのが分かった。
兄の声が聞こえたのは、そのときだった。
必ず、優勝旗を持ち帰る。
パタリとドアの閉まる音。
ぱかりと目を開けて、ドアの方に視線を向ける。目の奥が熱く、喉は焼け付くようだった。頭の中はぐらぐらと煮えている。
そんなことは望んでいないと叫びたかった。
兄が何を思ってそのようなことを言ったのか胸中は知れないが、僕自身そんなことはこれっぽっちも望んでいないことだった。だって、そうだろう、優勝旗は持ってきてもらうものではない、自分の手で掴み取るものだ。
優勝旗を掴んで笑う兄を想像すると、どうしようもなく苦いものが胸の内に広がった。兄ならば、やってのけるだろう。優勝旗を持って、高らかに笑うのだろう。僕は、それを見ているのか。こんなところで、見ていなければならないのか。
ただ、野球がしたかった。兄の隣で、チームメイトの傍らで、野球がしたかった。
ただそれだけのことが今はもう随分と遠い。
僕は、野球がしたい。
ノックの音が聞こえたのは、そのときだった。
――――――――
5/9/ポケ1がごちゃまぜ
いつかマスクさんのお話をちゃんと書いてみたいの
瓦解
進守
思えば、崩壊の兆しはずいぶんと前からあった。
それが表出するのか、内面に沈んだまま鈍く光っているのか、ただそれだけの違いだった。
気付いてしまえばそれはとても簡単なことで、長年胸をつかえさせていた嫌なしこりが喉元をすっと下っていくような思いで僕は唾をのみ込んだ。
ずっとやってみたかったことを、僕は今日実行に移した。
僕の下でもがいている兄は、一切の抵抗をしない。
馬乗りにされて首を絞められているというのに、抵抗をしないとは一体全体どういうことなのだろう。
兄は死にたがっているようには見えなかったし、そういう人間ではないことを僕はよく知っている。
必死になって抵抗して、泣いて暴れて、自分を叱責する兄を想像していた僕としては若干拍子抜けの思いである。
兄さん、ちゃんと抵抗しないと、どうなっても知らないよ。
なんてったって、僕はこんなことをするのは初めてなんだからね。
もちろん加減の仕方なんて知らない。
僕は昔から兄の青い瞳が好きだった。
それはどこまでも透き通っていて、汚いことなど何も知らないかのようにただ純粋なきらめきを以て兄は世界を見ていた。
そんな兄を体現しているかのように深く澄んだブルーの瞳。
兄の見る世界とは一体どのようなものなのだろうか、僕はそれがずっと気になっていた。
首を絞められて抵抗する兄の瞳が、一体どんな色を映すのか、僕はそれが知りたい。
歪むのだろうか、濁るのだろうか、それとも。
それだというのに、兄の瞳は一向に開かれないまま、閉ざされたままなのである。
兄はこんなときにまでいじわるだ。
その瞳に映る僕は何色なのか、それが知りたかっただけなのに。
「兄さん」
呼びかけても兄は答えない。
自分がそうさせているというのに、僕はそれがどうしようもなく許せなかった。
首を絞める指に力が入り、爪が食い込む。
ぎりぎりと締め上げる感覚は、僕が長い間抱き続けてきた感情にも似ていた。
僕にとっての兄とは、真綿で首を絞められるようなものだった。
じわりじわりと確実に締め上げ、それはいつしか決定的な苦しみとなる。
世界でただひとりだけ、僕の愛しい兄さん。
手を離すと、兄は大きく息をついて盛大にむせ返った。
体をくの字に折り曲げて苦しそうに咳き込んでいる。
その様子を横目に僕は兄の上から降りて、ついでにベッドからも降りた。
これ以上ここにいても無駄だと思ったからだ。
やりたかったことはやってみたし、もういい。
「進」
僕の名を呼んだ兄の声は、ひそかに震えていた。蚊の鳴くような声だった。
僕はなんにも知らないフリをして振り返る。
「進、おまえはボクを殺したいのか」
知らないよ、そんなの。
それだけ言って、僕は部屋を後にした。
―――――
みじかい
思えば、崩壊の兆しはずいぶんと前からあった。
それが表出するのか、内面に沈んだまま鈍く光っているのか、ただそれだけの違いだった。
気付いてしまえばそれはとても簡単なことで、長年胸をつかえさせていた嫌なしこりが喉元をすっと下っていくような思いで僕は唾をのみ込んだ。
ずっとやってみたかったことを、僕は今日実行に移した。
僕の下でもがいている兄は、一切の抵抗をしない。
馬乗りにされて首を絞められているというのに、抵抗をしないとは一体全体どういうことなのだろう。
兄は死にたがっているようには見えなかったし、そういう人間ではないことを僕はよく知っている。
必死になって抵抗して、泣いて暴れて、自分を叱責する兄を想像していた僕としては若干拍子抜けの思いである。
兄さん、ちゃんと抵抗しないと、どうなっても知らないよ。
なんてったって、僕はこんなことをするのは初めてなんだからね。
もちろん加減の仕方なんて知らない。
僕は昔から兄の青い瞳が好きだった。
それはどこまでも透き通っていて、汚いことなど何も知らないかのようにただ純粋なきらめきを以て兄は世界を見ていた。
そんな兄を体現しているかのように深く澄んだブルーの瞳。
兄の見る世界とは一体どのようなものなのだろうか、僕はそれがずっと気になっていた。
首を絞められて抵抗する兄の瞳が、一体どんな色を映すのか、僕はそれが知りたい。
歪むのだろうか、濁るのだろうか、それとも。
それだというのに、兄の瞳は一向に開かれないまま、閉ざされたままなのである。
兄はこんなときにまでいじわるだ。
その瞳に映る僕は何色なのか、それが知りたかっただけなのに。
「兄さん」
呼びかけても兄は答えない。
自分がそうさせているというのに、僕はそれがどうしようもなく許せなかった。
首を絞める指に力が入り、爪が食い込む。
ぎりぎりと締め上げる感覚は、僕が長い間抱き続けてきた感情にも似ていた。
僕にとっての兄とは、真綿で首を絞められるようなものだった。
じわりじわりと確実に締め上げ、それはいつしか決定的な苦しみとなる。
世界でただひとりだけ、僕の愛しい兄さん。
手を離すと、兄は大きく息をついて盛大にむせ返った。
体をくの字に折り曲げて苦しそうに咳き込んでいる。
その様子を横目に僕は兄の上から降りて、ついでにベッドからも降りた。
これ以上ここにいても無駄だと思ったからだ。
やりたかったことはやってみたし、もういい。
「進」
僕の名を呼んだ兄の声は、ひそかに震えていた。蚊の鳴くような声だった。
僕はなんにも知らないフリをして振り返る。
「進、おまえはボクを殺したいのか」
知らないよ、そんなの。
それだけ言って、僕は部屋を後にした。
―――――
みじかい
アイスブルー
※設定、時系列総無視なのですべてを許せる心の広い方向け
進守
着信を告げるライトがぱかぱかと光を灯している。
机の上に置いてある携帯電話を一瞥しながら僕は鞄のチャックを閉めた。
荷物はこれだけ。詰めてみると意外にも少ないそれに僕は少しだけ笑った。
誰が何と言おうと、これは僕にとって新たなる門出。めでたい日なのだ。
アイスブルーに点滅するライトを眺めながら僕は携帯電話をポケットにしまった。
父さんと母さんにはもう事前にあいさつを済ませていたから、僕は少ない荷物を提げてさっさと自宅を後にすることにした。
長い長い廊下を歩いて、ようやく玄関のホールが見えてくる。
今日から僕は一人暮らしをするために、この家を出ていくのだった。見送りなど特になかったし、必要なかった。世話になった使用人の数人から見送りたい旨を伝えられたが、僕はそれをきっぱりと断った。今までお世話になりました。さようなら。
玄関から表に出て、門にたどり着くまでがもう少し。
表には当然のように猪狩専属のドライバーが控えていたが、僕はやんわりと断って歩き始めた。まさか歩くのかというドライバーの視線を振り切って僕は進む。
門まで出たらタクシーを呼んであるので、それに乗って新居へ向かう予定だ。
風がさわさわと木々を揺らし、僕の頬を撫でていく。
心地の良い日の光が射すそこには手入れの行き届いた庭園がある。父さん自慢の庭だった。昔はよくここでキャッチボールをしたものだ。子供のときはキャッチボールすらままならないくらいの下手くそで、よくボールを取りこぼしてはなくしたりしていた。ボールがなくなることはもちろん困ったが、2人でボールを探すために一緒になって草むらに顔を突っ込んで遊ぶのは好きだった。しかし、この庭を見ることもしばらくはない。
僕はもうこの家に戻ってくるつもりはなかったし、一人前の野球選手として活躍できるまで、父さんと母さんに会うつもりもなかった。自分が一人でどこまでできるのか試したかった。
タクシーに乗り込み行き先を告げる。
どんどん小さくなる猪狩邸を視界の端に入れながら僕は携帯電話を取り出した。
ライトはいまだにぱかぱかと点滅している。
誰からの着信なのか確かめたくない僕は、携帯を手の中で持て余したまま少しだけ息を吐き出した。
猪狩守とは僕の兄のことである。
猪狩と言えば兄のことを指し、猪狩の弟と言えば僕のことを指すのが学生時代の常であった。
僕はずっと兄の後ろを歩いてきたし、兄の背中を眺めながら生きてきた。
そんな生き方に疑問を持たない時期も、確かにあった。僕は兄のことを慕っていたし、兄もまたそんな僕を何かと気をかけてくれていた。
窓の外をぼんやりと眺めていると雨が降ってきた。さっきまで晴れていたというのに変な天気だ。
今夜は豪雨になるそうですねと運転手が言う。そうなんですね、答えながら僕は鞄の中から折り畳み傘を探し当てる。進は準備がいいな、唐突に兄の声が頭の中をよぎり、僕は少しだけ頭を振ってやり過ごす。
進はボクの弟だからね。
そうだよ兄さん、僕はあなたの弟だ。
オリックスへの入団を希望していることも、一人暮らしを始めることも、兄には何一つ告げていなかった。嘘をついていたわけではない。兄は何も聞かなかったし、僕も何も言わなかっただけだ。
なぜだか僕が自分と同じ球団へ入団するとばかり思い込んでいたらしい兄の様子は、僕からすれば不思議でしかなかった。なぜ僕が自分と同じ球団を希望していると信じきっているのだろう。兄には昔からそういうところがあった。
兄のことを好いているのか嫌っているのか、僕にはよく分からない。
殺したいほど憎いような気もするし、自分のすべてを懸けて愛しているような気さえする。
よく分からない。
兄に対して、好意以外の感情を持つようになったのはいつの頃だっただろうか。
進はボクの弟だからね、その言葉が疎ましいと感じるようになったのはいつからだったか。
僕たちは唯一無二の兄弟だ。
僕のことを弟と呼べるのは兄だけだし、兄のことを兄さんと呼べるのは僕だけだ。
世界でただ、2人だけ。その世界をどういう色で見るのか、それはすべて僕次第なのだ。
アイスブルーのライトはいまだに点滅し続けている。
その青色にまで兄を見てしまった僕は、ブラザーコンプレックスの重病者なのかもしれなかった。だって、ああ、そんなの仕方ないだろう。ずっと一緒にいたんだもの。僕の世界の色とはつまり、兄のいる世界だったんだもの。
記憶の中にある兄の瞳は青く美しく、いつだって澄んでいた。
雨足が強くなり、窓ガラスを激しく打ち鳴らしていた。タクシーが止まる。
携帯を鞄の中に閉まって、代わりに折り畳み傘を開く。
踏み出した一歩は雨で濡れたが、雨遊びをする子供のような心持になって、僕はほんの少しだけ笑った。
―――――――――
この進って何才なんですかね
時期的にどこになるんですかね
普通に考えて一人暮らしの前にまずは寮生活ですよね
ていうか一人暮らしってカイザース時代じゃないの
\(^^)/
考えるな感じろを極めるとこうなるんですね~
猪狩兄弟が好きなだけ
進守
着信を告げるライトがぱかぱかと光を灯している。
机の上に置いてある携帯電話を一瞥しながら僕は鞄のチャックを閉めた。
荷物はこれだけ。詰めてみると意外にも少ないそれに僕は少しだけ笑った。
誰が何と言おうと、これは僕にとって新たなる門出。めでたい日なのだ。
アイスブルーに点滅するライトを眺めながら僕は携帯電話をポケットにしまった。
父さんと母さんにはもう事前にあいさつを済ませていたから、僕は少ない荷物を提げてさっさと自宅を後にすることにした。
長い長い廊下を歩いて、ようやく玄関のホールが見えてくる。
今日から僕は一人暮らしをするために、この家を出ていくのだった。見送りなど特になかったし、必要なかった。世話になった使用人の数人から見送りたい旨を伝えられたが、僕はそれをきっぱりと断った。今までお世話になりました。さようなら。
玄関から表に出て、門にたどり着くまでがもう少し。
表には当然のように猪狩専属のドライバーが控えていたが、僕はやんわりと断って歩き始めた。まさか歩くのかというドライバーの視線を振り切って僕は進む。
門まで出たらタクシーを呼んであるので、それに乗って新居へ向かう予定だ。
風がさわさわと木々を揺らし、僕の頬を撫でていく。
心地の良い日の光が射すそこには手入れの行き届いた庭園がある。父さん自慢の庭だった。昔はよくここでキャッチボールをしたものだ。子供のときはキャッチボールすらままならないくらいの下手くそで、よくボールを取りこぼしてはなくしたりしていた。ボールがなくなることはもちろん困ったが、2人でボールを探すために一緒になって草むらに顔を突っ込んで遊ぶのは好きだった。しかし、この庭を見ることもしばらくはない。
僕はもうこの家に戻ってくるつもりはなかったし、一人前の野球選手として活躍できるまで、父さんと母さんに会うつもりもなかった。自分が一人でどこまでできるのか試したかった。
タクシーに乗り込み行き先を告げる。
どんどん小さくなる猪狩邸を視界の端に入れながら僕は携帯電話を取り出した。
ライトはいまだにぱかぱかと点滅している。
誰からの着信なのか確かめたくない僕は、携帯を手の中で持て余したまま少しだけ息を吐き出した。
猪狩守とは僕の兄のことである。
猪狩と言えば兄のことを指し、猪狩の弟と言えば僕のことを指すのが学生時代の常であった。
僕はずっと兄の後ろを歩いてきたし、兄の背中を眺めながら生きてきた。
そんな生き方に疑問を持たない時期も、確かにあった。僕は兄のことを慕っていたし、兄もまたそんな僕を何かと気をかけてくれていた。
窓の外をぼんやりと眺めていると雨が降ってきた。さっきまで晴れていたというのに変な天気だ。
今夜は豪雨になるそうですねと運転手が言う。そうなんですね、答えながら僕は鞄の中から折り畳み傘を探し当てる。進は準備がいいな、唐突に兄の声が頭の中をよぎり、僕は少しだけ頭を振ってやり過ごす。
進はボクの弟だからね。
そうだよ兄さん、僕はあなたの弟だ。
オリックスへの入団を希望していることも、一人暮らしを始めることも、兄には何一つ告げていなかった。嘘をついていたわけではない。兄は何も聞かなかったし、僕も何も言わなかっただけだ。
なぜだか僕が自分と同じ球団へ入団するとばかり思い込んでいたらしい兄の様子は、僕からすれば不思議でしかなかった。なぜ僕が自分と同じ球団を希望していると信じきっているのだろう。兄には昔からそういうところがあった。
兄のことを好いているのか嫌っているのか、僕にはよく分からない。
殺したいほど憎いような気もするし、自分のすべてを懸けて愛しているような気さえする。
よく分からない。
兄に対して、好意以外の感情を持つようになったのはいつの頃だっただろうか。
進はボクの弟だからね、その言葉が疎ましいと感じるようになったのはいつからだったか。
僕たちは唯一無二の兄弟だ。
僕のことを弟と呼べるのは兄だけだし、兄のことを兄さんと呼べるのは僕だけだ。
世界でただ、2人だけ。その世界をどういう色で見るのか、それはすべて僕次第なのだ。
アイスブルーのライトはいまだに点滅し続けている。
その青色にまで兄を見てしまった僕は、ブラザーコンプレックスの重病者なのかもしれなかった。だって、ああ、そんなの仕方ないだろう。ずっと一緒にいたんだもの。僕の世界の色とはつまり、兄のいる世界だったんだもの。
記憶の中にある兄の瞳は青く美しく、いつだって澄んでいた。
雨足が強くなり、窓ガラスを激しく打ち鳴らしていた。タクシーが止まる。
携帯を鞄の中に閉まって、代わりに折り畳み傘を開く。
踏み出した一歩は雨で濡れたが、雨遊びをする子供のような心持になって、僕はほんの少しだけ笑った。
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この進って何才なんですかね
時期的にどこになるんですかね
普通に考えて一人暮らしの前にまずは寮生活ですよね
ていうか一人暮らしってカイザース時代じゃないの
\(^^)/
考えるな感じろを極めるとこうなるんですね~
猪狩兄弟が好きなだけ

