冥土の土産
冥土の土産 (主人公×猪狩守)
左手が出る、というのは、猪狩が本気で怒っている証拠だった。サウスポーである猪狩が、自らの左手を粗末に扱うことは断じてない。粗末に扱うどころか、いつだって何よりも大切にしているものだ。だから、叩かれた頬の痛みよりも、オレはそっちの方に驚いていた。あまりの怒りに、猪狩は思わず利き手でオレを殴ったらしかった。
「キミは、本当にバカだ」
「馬鹿じゃない。オレは、ずっと考えてたことだよ。猪狩、それがやっぱりオレたちの…いや、おまえのためになると思うんだ」
猪狩は答えない。握りしめられたままの猪狩の左手は、密やかに震えていた。オレはもう、猪狩の左手が気に掛かって、喧嘩どころではなくなってしまっていた。お前の左手に、指先に、ピッチャーとしての生命線に、何かあろうものなら。
しかし、そんなことを言うのも許されないほど猪狩は怒っていた。こんな猪狩は、見たことがない。オレは、さっきから戸惑ってばかりだ。上手いことが何も言えない。最後くらいは笑って別れたいと、そんなことを思っていた自分の甘さにほとほと愛想が尽きそうだ。
「キミが…キミから始めたんじゃないか」
「そうだよ。だから、ずっと考えてた。いつまでもこのままじゃいられないって…」
「ボクのことがキライになったのか」
「そんなわけないだろ」
いよいよ別れ話の終幕に相応しいやり取りになってきた。オレと猪狩は、付き合っていた。高校2年の、初めのことだ。我慢出来なくなったオレが猪狩に手を出したのがきっかけで、そのままなし崩しに今日まで関係は続いていた。
楽しかったし、猪狩も楽しそうにみえた。猪狩からは一度も好きだと言われたことはなかったけど、それで良かった。オレが、猪狩を好きだったから。猪狩といられれば、それで良かった。だけど、それももう、終わりだ。高校3年の冬。もうすぐ、春がやってくる。春が来れば、オレも猪狩も新しい生活が待っている。甲子園優勝をも果たしたオレたちは、揃ってプロ入りを決めたのだった。
「もうすぐ、卒業式だろ。それまでに、おまえとのこと、きちんとしておきたかったんだ」
「……」
「プロになったら忙しくなるだろう。生半可なことでは、やっていけないだろう。それに、オレとおまえは男同士だ。この辺で終わりにしておいた方が、いいんだ」
「パワプロ。最後にひとつだけ聞かせろ」
「なんだ?」
「キミは、ボクのことが好きなのか。嫌いなのか」
「……」
「答えろ」
「好きに決まってる…」
思い切り振りかぶった猪狩の拳に、オレは再びぶん殴られた。先ほどとは比べ物にもならない衝撃に、後ろに吹き飛んで倒れる。そんなオレに猪狩は馬乗りになって、なおも殴りつけようとしてくる。
「やめろ猪狩、左手は使うな!落ち着け!」
「……」
「ん!?」
乱暴に胸ぐらを掴んでオレの身体を起こした猪狩は、そのまま自らの唇を重ねるのだった。互いの唇の輪郭をなぞるような、柔らかくて甘いキス。初めて猪狩からなされたそれに、オレは驚いて声も出なかった。殴られた頬と、触れ合う唇が熱い。猪狩は何度か角度を変えながらキスをすると、名残惜しそうに離れていくのだった。
「キミは、バカだ」
「…それは、さっき聞いたよ」
「バカのくせに、理屈だとか、将来のことだとか、もっともらしく言うな」
「…うん」
「もう二度と言うな」
「…うん。ごめん」
「なあ猪狩、おまえは」
「キミのことが、好きだ」
初めて聞いた猪狩の告白に、オレは返事の代わりとばかりに今度は自分から唇を重ねるのだった。そっと瞼を下ろした猪狩を抱き締めながら、オレは馬鹿だから、もう一生離してやらないぞと、そんなことを考えていた。
了
ーーーーーーーーーーーーーーーーー
※冥土の土産…冥土へ行く際に持参する土産 それを手に入れて初めて安心して死ねるような事物をいう
久しぶりにガチめの主守。だいすき。
左手が出る、というのは、猪狩が本気で怒っている証拠だった。サウスポーである猪狩が、自らの左手を粗末に扱うことは断じてない。粗末に扱うどころか、いつだって何よりも大切にしているものだ。だから、叩かれた頬の痛みよりも、オレはそっちの方に驚いていた。あまりの怒りに、猪狩は思わず利き手でオレを殴ったらしかった。
「キミは、本当にバカだ」
「馬鹿じゃない。オレは、ずっと考えてたことだよ。猪狩、それがやっぱりオレたちの…いや、おまえのためになると思うんだ」
猪狩は答えない。握りしめられたままの猪狩の左手は、密やかに震えていた。オレはもう、猪狩の左手が気に掛かって、喧嘩どころではなくなってしまっていた。お前の左手に、指先に、ピッチャーとしての生命線に、何かあろうものなら。
しかし、そんなことを言うのも許されないほど猪狩は怒っていた。こんな猪狩は、見たことがない。オレは、さっきから戸惑ってばかりだ。上手いことが何も言えない。最後くらいは笑って別れたいと、そんなことを思っていた自分の甘さにほとほと愛想が尽きそうだ。
「キミが…キミから始めたんじゃないか」
「そうだよ。だから、ずっと考えてた。いつまでもこのままじゃいられないって…」
「ボクのことがキライになったのか」
「そんなわけないだろ」
いよいよ別れ話の終幕に相応しいやり取りになってきた。オレと猪狩は、付き合っていた。高校2年の、初めのことだ。我慢出来なくなったオレが猪狩に手を出したのがきっかけで、そのままなし崩しに今日まで関係は続いていた。
楽しかったし、猪狩も楽しそうにみえた。猪狩からは一度も好きだと言われたことはなかったけど、それで良かった。オレが、猪狩を好きだったから。猪狩といられれば、それで良かった。だけど、それももう、終わりだ。高校3年の冬。もうすぐ、春がやってくる。春が来れば、オレも猪狩も新しい生活が待っている。甲子園優勝をも果たしたオレたちは、揃ってプロ入りを決めたのだった。
「もうすぐ、卒業式だろ。それまでに、おまえとのこと、きちんとしておきたかったんだ」
「……」
「プロになったら忙しくなるだろう。生半可なことでは、やっていけないだろう。それに、オレとおまえは男同士だ。この辺で終わりにしておいた方が、いいんだ」
「パワプロ。最後にひとつだけ聞かせろ」
「なんだ?」
「キミは、ボクのことが好きなのか。嫌いなのか」
「……」
「答えろ」
「好きに決まってる…」
思い切り振りかぶった猪狩の拳に、オレは再びぶん殴られた。先ほどとは比べ物にもならない衝撃に、後ろに吹き飛んで倒れる。そんなオレに猪狩は馬乗りになって、なおも殴りつけようとしてくる。
「やめろ猪狩、左手は使うな!落ち着け!」
「……」
「ん!?」
乱暴に胸ぐらを掴んでオレの身体を起こした猪狩は、そのまま自らの唇を重ねるのだった。互いの唇の輪郭をなぞるような、柔らかくて甘いキス。初めて猪狩からなされたそれに、オレは驚いて声も出なかった。殴られた頬と、触れ合う唇が熱い。猪狩は何度か角度を変えながらキスをすると、名残惜しそうに離れていくのだった。
「キミは、バカだ」
「…それは、さっき聞いたよ」
「バカのくせに、理屈だとか、将来のことだとか、もっともらしく言うな」
「…うん」
「もう二度と言うな」
「…うん。ごめん」
「なあ猪狩、おまえは」
「キミのことが、好きだ」
初めて聞いた猪狩の告白に、オレは返事の代わりとばかりに今度は自分から唇を重ねるのだった。そっと瞼を下ろした猪狩を抱き締めながら、オレは馬鹿だから、もう一生離してやらないぞと、そんなことを考えていた。
了
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※冥土の土産…冥土へ行く際に持参する土産 それを手に入れて初めて安心して死ねるような事物をいう
久しぶりにガチめの主守。だいすき。
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好きなんだ
好きなんだ(主人公×猪狩守)
「パワプロくんが、さっき女の子に呼び出されてたでやんす!きっと告白されるに違いないでやんすよ!」
悔しいでやんす〜!と勢いよく駆け出していった矢部とは対照的に、ボクは制服を中途半端に引っ掛けたまま、ユニフォームに着替えている途中であった。
いつもならば部室まで矢部と一緒にやってくるパワプロの姿はなく、特に尋ねてもいないのだが、矢部は勝手に言いたいことだけを言ってグラウンドに出ていったようだ。他の部員はまだ来ていない。一人になった部室でボクはようやくユニフォームに袖を通した。タオルを掴んで、スパイクに履き替える。
なんだか、変な感じだ。スパイクの紐を掴むのに上手く結べなくて、ボクはもどかしくなる気持ちを抑えてなんとかそれを結び終えた。ぼんやりと浮かぶのは、さっきの矢部の言葉と、ボクが勝手に想像するパワプロの姿だった。
パワプロが女生徒に呼び出されたらしい。そして告白をされるそうだ。一体それがどうしたというのだろう。馬鹿馬鹿しい。ボクにはなんの関係もないことだ。
そうは思うのに、ボクの頭の中には随分と勝手な想像が散らかっていた。パワプロに彼女が出来たら。きっと、ボクと過ごす時間は今までよりも減ることだろう。
部活動のあと、個人練習と称して二人だけで自主練習をする時間。時折、公園に寄ってキャッチボールをする時間。学校からの帰り、寄り道をして一緒にハンバーガーを食べる時間。新しいゲームを買ったと言って、パワプロの家で一緒にゲームをする時間。テスト前、助けて欲しいとボクにみっともなく泣き付いたパワプロに勉強を教えてやる時間。
それらの時間はきっと、その「彼女」とやらに割かれてしまうのだろう。「彼女が欲しい」そんなことを常日頃から冗談めかした口調で話していたパワプロの顔がいやというほど鮮明に思い出される。
そうしてボクはひとつの結論、気付きを得るのだった。一度腑に落ちてしまえばなるほど理解の出来る感情で、ボクは驚くほど素直にその気持ちを認めるのだった。そしてそれと同時に湧いてくるのは怒りである。パワプロからしてみれば不当としか言いようのないものであろうが、当事者のボクからすればまさしく怒り以外のなにものでもない。この天才猪狩守を差し置いて、いい度胸だ。
「あれ、猪狩しかいないの」
ガチャガチャと騒々しくドアノブを回して入ってきたのは、パワプロだった。鞄を放るようにして椅子へ置くと、さっそく制服のボタンを外して着替え始めた。
「猪狩、珍しいじゃん。いつもならさっさと着替えてランニングでもしてるのに」
あっという間にユニフォーム姿になったパワプロは、帽子を掴むとさっさとスパイクを履いて、今にも駆け出していってしまいそうだ。
「おい、パワプロ」
「へ、なに?」
「キミ、ボクに何か言うことはないのかい」
「え…ないけど。猪狩、なんか怒ってる?どうかしたのか?」
へらりと笑ってみせたその顔に、ボクはほんの今しがた導き出した気付き、結論への回答を見たような気がした。もう認めるしかないだろう。
「パワプロ。ボクは、キミのことが…」
さて、そのあとどうなったかといいますと、皆さまご承知置きの通りでございます。
突然降ってきた愛の告白にあっけに取られる人間がいる一方、言いたいことを言って勝手にスッキリしている天才が一人、そもそも話の始まりからすべて眼鏡の彼の早とちり思い違いだったとか、それによって天才が起こした天災のような告白から付き合うようになった二人がいたとかいないとか、おおむねそんな感じの、今日も平和なあかつき高校野球でしたとさ。終わりだよ!
了
ーーーーーーーーーーーー
たまにはいいだろうという意欲作。
みなまで言うな…^^
「パワプロくんが、さっき女の子に呼び出されてたでやんす!きっと告白されるに違いないでやんすよ!」
悔しいでやんす〜!と勢いよく駆け出していった矢部とは対照的に、ボクは制服を中途半端に引っ掛けたまま、ユニフォームに着替えている途中であった。
いつもならば部室まで矢部と一緒にやってくるパワプロの姿はなく、特に尋ねてもいないのだが、矢部は勝手に言いたいことだけを言ってグラウンドに出ていったようだ。他の部員はまだ来ていない。一人になった部室でボクはようやくユニフォームに袖を通した。タオルを掴んで、スパイクに履き替える。
なんだか、変な感じだ。スパイクの紐を掴むのに上手く結べなくて、ボクはもどかしくなる気持ちを抑えてなんとかそれを結び終えた。ぼんやりと浮かぶのは、さっきの矢部の言葉と、ボクが勝手に想像するパワプロの姿だった。
パワプロが女生徒に呼び出されたらしい。そして告白をされるそうだ。一体それがどうしたというのだろう。馬鹿馬鹿しい。ボクにはなんの関係もないことだ。
そうは思うのに、ボクの頭の中には随分と勝手な想像が散らかっていた。パワプロに彼女が出来たら。きっと、ボクと過ごす時間は今までよりも減ることだろう。
部活動のあと、個人練習と称して二人だけで自主練習をする時間。時折、公園に寄ってキャッチボールをする時間。学校からの帰り、寄り道をして一緒にハンバーガーを食べる時間。新しいゲームを買ったと言って、パワプロの家で一緒にゲームをする時間。テスト前、助けて欲しいとボクにみっともなく泣き付いたパワプロに勉強を教えてやる時間。
それらの時間はきっと、その「彼女」とやらに割かれてしまうのだろう。「彼女が欲しい」そんなことを常日頃から冗談めかした口調で話していたパワプロの顔がいやというほど鮮明に思い出される。
そうしてボクはひとつの結論、気付きを得るのだった。一度腑に落ちてしまえばなるほど理解の出来る感情で、ボクは驚くほど素直にその気持ちを認めるのだった。そしてそれと同時に湧いてくるのは怒りである。パワプロからしてみれば不当としか言いようのないものであろうが、当事者のボクからすればまさしく怒り以外のなにものでもない。この天才猪狩守を差し置いて、いい度胸だ。
「あれ、猪狩しかいないの」
ガチャガチャと騒々しくドアノブを回して入ってきたのは、パワプロだった。鞄を放るようにして椅子へ置くと、さっそく制服のボタンを外して着替え始めた。
「猪狩、珍しいじゃん。いつもならさっさと着替えてランニングでもしてるのに」
あっという間にユニフォーム姿になったパワプロは、帽子を掴むとさっさとスパイクを履いて、今にも駆け出していってしまいそうだ。
「おい、パワプロ」
「へ、なに?」
「キミ、ボクに何か言うことはないのかい」
「え…ないけど。猪狩、なんか怒ってる?どうかしたのか?」
へらりと笑ってみせたその顔に、ボクはほんの今しがた導き出した気付き、結論への回答を見たような気がした。もう認めるしかないだろう。
「パワプロ。ボクは、キミのことが…」
さて、そのあとどうなったかといいますと、皆さまご承知置きの通りでございます。
突然降ってきた愛の告白にあっけに取られる人間がいる一方、言いたいことを言って勝手にスッキリしている天才が一人、そもそも話の始まりからすべて眼鏡の彼の早とちり思い違いだったとか、それによって天才が起こした天災のような告白から付き合うようになった二人がいたとかいないとか、おおむねそんな感じの、今日も平和なあかつき高校野球でしたとさ。終わりだよ!
了
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たまにはいいだろうという意欲作。
みなまで言うな…^^
犬も食わないなんとやら
犬も食わないなんとやら(主人公×猪狩守)
「だから何回言ったら分かるんだよ、猪狩!」
「それはこっちのセリフだね。キミこそ何度同じことを言わせるつもりだい?まあ、キミの頭では、理解出来ないことも致し方ないけどね」
「なんだと!」
「なんだい」
いつものように隣で賑やかに言い争っているパワプロくんと猪狩くんの声を聞きながら、練習後の疲れた身体を引きずるようにして着替えをしているオイラの名前は矢部明雄というでやんす。
いつものことなので、オイラを含めたチームメイトたちも全く意に介さず、各々好きに会話を続けている。矢部、昨日のテレビ見た?昨日オイラはガンダーロボの一挙放送を見てたでやんす。
それにしても、名門あかつき大附属高校野球部のあの厳しい練習のあとでこんなにも元気にじゃれているのは正直すごいと思うでやんす。それも飽きることなく連日、毎日、きっかり欠かすことのない日課のように。だからついオイラの口からぽろりと零れ落ちてしまったのは、仕方のないことだと思うでやんす。
「パワプロくんと猪狩くん、本当に仲がいいでやんすね。毎日、飽きないんでやんすか?」
「ちょっと矢部くん、これのどこが仲がいいっていうの?」
「お互い、相手のことが好きなのがバレバレでやんす」
「オレ、べつに猪狩のことなんて全然好きじゃな、い…」
パワプロくんが変なところで言い淀んだので、どうしたのかとオイラも顔を上げて、そしてすぐに合点がいった。
誰の目から見ても明白に、はっきりと、如実に、猪狩くんが真っ赤な顔をして固まっていたのでやんす。それを見たパワプロくんもつられたように赤面してしまって、二人の間に妙な沈黙が漂う。
しかし、それもまたいつものように「二人の間にだけ」起きたことでやんす。オイラを含めた周りのチームメイトたちは、「今更かよ〜」という感想しかなく、相も変わらず各々好きなおしゃべりを続けている。
真っ赤になった猪狩くんをつっついて、パワプロくんもまた赤くなっていて、やれやれでやんす。あかつき大附属高校野球部の部室は、今日も平和でやんすねえ。
了
ーーーーーーーーーーーーー
毎度ご無沙汰しております。
今年もパワフルカップにサークル参加する予定でございますので、何卒よろしくお願いいたします〜!
日にちが近くなったらまた詳細をお知らせいたします^^
「だから何回言ったら分かるんだよ、猪狩!」
「それはこっちのセリフだね。キミこそ何度同じことを言わせるつもりだい?まあ、キミの頭では、理解出来ないことも致し方ないけどね」
「なんだと!」
「なんだい」
いつものように隣で賑やかに言い争っているパワプロくんと猪狩くんの声を聞きながら、練習後の疲れた身体を引きずるようにして着替えをしているオイラの名前は矢部明雄というでやんす。
いつものことなので、オイラを含めたチームメイトたちも全く意に介さず、各々好きに会話を続けている。矢部、昨日のテレビ見た?昨日オイラはガンダーロボの一挙放送を見てたでやんす。
それにしても、名門あかつき大附属高校野球部のあの厳しい練習のあとでこんなにも元気にじゃれているのは正直すごいと思うでやんす。それも飽きることなく連日、毎日、きっかり欠かすことのない日課のように。だからついオイラの口からぽろりと零れ落ちてしまったのは、仕方のないことだと思うでやんす。
「パワプロくんと猪狩くん、本当に仲がいいでやんすね。毎日、飽きないんでやんすか?」
「ちょっと矢部くん、これのどこが仲がいいっていうの?」
「お互い、相手のことが好きなのがバレバレでやんす」
「オレ、べつに猪狩のことなんて全然好きじゃな、い…」
パワプロくんが変なところで言い淀んだので、どうしたのかとオイラも顔を上げて、そしてすぐに合点がいった。
誰の目から見ても明白に、はっきりと、如実に、猪狩くんが真っ赤な顔をして固まっていたのでやんす。それを見たパワプロくんもつられたように赤面してしまって、二人の間に妙な沈黙が漂う。
しかし、それもまたいつものように「二人の間にだけ」起きたことでやんす。オイラを含めた周りのチームメイトたちは、「今更かよ〜」という感想しかなく、相も変わらず各々好きなおしゃべりを続けている。
真っ赤になった猪狩くんをつっついて、パワプロくんもまた赤くなっていて、やれやれでやんす。あかつき大附属高校野球部の部室は、今日も平和でやんすねえ。
了
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毎度ご無沙汰しております。
今年もパワフルカップにサークル参加する予定でございますので、何卒よろしくお願いいたします〜!
日にちが近くなったらまた詳細をお知らせいたします^^
閑話休題
主守
テレビから流れる賑やかな音を聞きながら、オレはといえばテレビも見ずに猪狩のつむじを眺めていた。
当の猪狩はそんなオレのことなどどこ吹く風で、手元の本に一生懸命視線を落としている。その様子は、よくもまあそんなところで読書など出来るものだと感心してしまう程で、猪狩はオレの足の間に座り込んで本を読んでいる。オレの腕の中で猪狩は大人しく読書を楽しんでいるのだった。
時折頬を寄せてみたり手遊びで髪をいじってみたりするのだが、完全に無視されている。どうやら今日は本当に本が読みたい日らしい。
オレはソファでだらだらしながらテレビを見るのが好きだったが、そんなオレのところに気まぐれを起こした猪狩がやってくることがある。いつの間にか、この場所は猪狩の特等席になってしまった。
オレがテレビを眺めて、猪狩は黙って本を読んでいる。猪狩はあまりテレビを見ないのだった。何がそんなに気に入ったのか、猪狩はこんな狭苦しいところで本を読むのが好きらしい。
今日も猪狩は当たり前の顔をしてオレの足の間に収まっている。猪狩がこれをやるとき、オレには見極めなければならないことがあった。すなわち、猪狩が本当に本を読みたくてここにいるのか、そうではないのか、ということである。
後者の場合はつまり、簡単に言うとただ構ってほしいだけのときである。猪狩は昔からシャイなアンチクショーであるので、構ってほしいときほど分かりやすいアクションをとる傾向にある。
さて、と猪狩に視線を落とす。先ほどから様子を見ている限り、今日の猪狩に限っては本当に本が読みたいだけのようであった。オレの方には目もくれずに、熱心にページをめくっている。ちらりと内容に目を落とすと、なんとか理論だとか物理学的に野球を紐解く云々だのと意味不明な単語ばかりが並んでいた。猪狩は練習熱心なのに加え、こういった知識欲に関しても旺盛である。
猪狩の髪を撫でながら、オレは思いついたことを尋ねてみた。眺めているテレビは芸能人の恋バナで大層盛り上がっているところだ。
「なあ猪狩」
「……」
「なあ」
「なんだい」
「お前ってオレのどこが好きなの?」
聞かれた猪狩はどこ吹く風である。無視しているだけなのかもしれないし、単純に本の世界に没頭しているだけなのかもしれない。腕の中の猪狩を抱き直しながらオレはもう一度尋ねた。
「なんだい、キミは急に」
「お前ってオレのどこが好きなわけ」
「そんなことを聞いてどうするんだ」
「べつにどうもしないけど、聞きたいだけ」
猪狩は黙って本を読んでいる。催促する意味でぎゅうぎゅうと腕の力を強めると、猪狩はやれやれと言って大きな溜息をついてから口を開いた。オレは猪狩のつむじに顎を乗っけて遊んでいる。
「ボクは、キライな人間とは一緒にいないよ」
「そんなの分かってるけどさ。じゃあなに、お前ってオレの嫌いなとことかないの」
「だから、キライだったら一緒にいないと言っているだろ」
それってつまりさあ…
未だに手元から視線を上げようとしない猪狩からオレは本を取り上げた。放ると怒られるので、そっとソファの脇に置く。
「オレの全部が好きってことになっちゃうけど?」
猪狩は否定しない。猪狩は黙って態勢を入れ替えると、くるりとこちらに体を向けてオレの頬を掴んだ。利き手である左手でぎゅうと力を込められ、きっとオレは変な顔になっている。
「さっきからうるさいのはこの口か」
「なんらよいかり」
「キミは、ボクが本を読んでいるときくらい静かに出来ないのかい」
「いやだったら、黙らせてみる?」
言った時にはもう、猪狩の唇が重なっている。それは柔らかく吸い付いて、一度合わさるとすぐに離れていった。猪狩は本を拾い上げるとさっさと元の態勢に戻り、再び本に視線を落とした。
「もうすぐキリのいいところまで読み終わる」
「はいはい」
今日は一緒に風呂に入ることを勝手に決めたオレは、もう一度だけ猪狩の髪を撫でるのだった。
――――――――――――
あまくておいしいヤオイの季節になりました
テレビから流れる賑やかな音を聞きながら、オレはといえばテレビも見ずに猪狩のつむじを眺めていた。
当の猪狩はそんなオレのことなどどこ吹く風で、手元の本に一生懸命視線を落としている。その様子は、よくもまあそんなところで読書など出来るものだと感心してしまう程で、猪狩はオレの足の間に座り込んで本を読んでいる。オレの腕の中で猪狩は大人しく読書を楽しんでいるのだった。
時折頬を寄せてみたり手遊びで髪をいじってみたりするのだが、完全に無視されている。どうやら今日は本当に本が読みたい日らしい。
オレはソファでだらだらしながらテレビを見るのが好きだったが、そんなオレのところに気まぐれを起こした猪狩がやってくることがある。いつの間にか、この場所は猪狩の特等席になってしまった。
オレがテレビを眺めて、猪狩は黙って本を読んでいる。猪狩はあまりテレビを見ないのだった。何がそんなに気に入ったのか、猪狩はこんな狭苦しいところで本を読むのが好きらしい。
今日も猪狩は当たり前の顔をしてオレの足の間に収まっている。猪狩がこれをやるとき、オレには見極めなければならないことがあった。すなわち、猪狩が本当に本を読みたくてここにいるのか、そうではないのか、ということである。
後者の場合はつまり、簡単に言うとただ構ってほしいだけのときである。猪狩は昔からシャイなアンチクショーであるので、構ってほしいときほど分かりやすいアクションをとる傾向にある。
さて、と猪狩に視線を落とす。先ほどから様子を見ている限り、今日の猪狩に限っては本当に本が読みたいだけのようであった。オレの方には目もくれずに、熱心にページをめくっている。ちらりと内容に目を落とすと、なんとか理論だとか物理学的に野球を紐解く云々だのと意味不明な単語ばかりが並んでいた。猪狩は練習熱心なのに加え、こういった知識欲に関しても旺盛である。
猪狩の髪を撫でながら、オレは思いついたことを尋ねてみた。眺めているテレビは芸能人の恋バナで大層盛り上がっているところだ。
「なあ猪狩」
「……」
「なあ」
「なんだい」
「お前ってオレのどこが好きなの?」
聞かれた猪狩はどこ吹く風である。無視しているだけなのかもしれないし、単純に本の世界に没頭しているだけなのかもしれない。腕の中の猪狩を抱き直しながらオレはもう一度尋ねた。
「なんだい、キミは急に」
「お前ってオレのどこが好きなわけ」
「そんなことを聞いてどうするんだ」
「べつにどうもしないけど、聞きたいだけ」
猪狩は黙って本を読んでいる。催促する意味でぎゅうぎゅうと腕の力を強めると、猪狩はやれやれと言って大きな溜息をついてから口を開いた。オレは猪狩のつむじに顎を乗っけて遊んでいる。
「ボクは、キライな人間とは一緒にいないよ」
「そんなの分かってるけどさ。じゃあなに、お前ってオレの嫌いなとことかないの」
「だから、キライだったら一緒にいないと言っているだろ」
それってつまりさあ…
未だに手元から視線を上げようとしない猪狩からオレは本を取り上げた。放ると怒られるので、そっとソファの脇に置く。
「オレの全部が好きってことになっちゃうけど?」
猪狩は否定しない。猪狩は黙って態勢を入れ替えると、くるりとこちらに体を向けてオレの頬を掴んだ。利き手である左手でぎゅうと力を込められ、きっとオレは変な顔になっている。
「さっきからうるさいのはこの口か」
「なんらよいかり」
「キミは、ボクが本を読んでいるときくらい静かに出来ないのかい」
「いやだったら、黙らせてみる?」
言った時にはもう、猪狩の唇が重なっている。それは柔らかく吸い付いて、一度合わさるとすぐに離れていった。猪狩は本を拾い上げるとさっさと元の態勢に戻り、再び本に視線を落とした。
「もうすぐキリのいいところまで読み終わる」
「はいはい」
今日は一緒に風呂に入ることを勝手に決めたオレは、もう一度だけ猪狩の髪を撫でるのだった。
――――――――――――
あまくておいしいヤオイの季節になりました
巡ること
主守
完全なるパラレルワールド
癖のある話のため、捏造偽造設定が苦手な方は閲覧を控えていただきますようお願い申し上げます
僕の名前は、猪狩進という。少し長くなるが、記録としてここに残しておこうと思い立ち、このたび筆を取った次第である。
これから話す出来事は、幼い頃兄が一匹の犬を拾ってきたところから始まる。
僕自身の記憶が定かではないので、あれは兄が3つか4つのときのことだと思う。あの日の兄は、何の前触れもなく唐突に犬を拾ってきた。きょとんとしている使用人や僕を差し置いて、兄はただ「飼う」の一点張りで、小さな手をいっぱいに使って抱いた犬を決して離そうとはしなかった。
当然反対した父と母は兄へやんわりと諭すように教え聞かせたが、兄は頑として主張を譲らなかった。今まで父や母に逆らったことのない兄があのような物言いをするのかと、僕は幼心に衝撃を受けたのを覚えている。静かに、それでも絶対に自分の主張を曲げずに兄は犬を手放さなかった。そうして、最終的に折れたのは両親の方だった。
それから、犬は家族になった。拾ってきた兄が世話を焼くのはもちろん、僕や父と母、使用人にもよく懐いたその犬は皆からかわいがられていた。犬の名前はパワプロといった。兄が付けたのだ。どうしてその名前なのかと僕は尋ねたことがあったが、兄はとうとう犬が死ぬまでその理由を言わなかった。
ある日、年をとった犬はとうとう弱って、安らかに死んでいった。寿命を全うしたのだ。朝、兄が様子を見に行ったときにはすでに冷たくなっていたという。その日のうちに、犬は庭に作られた墓へと埋められた。僕たちの家は一般的な家庭よりも裕福だったため、犬一匹の墓を庭に作ることくらい造作もないことであった。
犬が死んだ日、兄はもちろん落ち込んでいたが、決して泣かなかった。犬が墓へ埋められるとき、兄は「大切な人の名前」だと言って、最後にもう一度だけその名前を呼んでいた。まだあどけなさが残る子供の顔にしては随分と感傷的な表情で、その横顔は僕の中に今でも印象深く残っている。
兄は死んだ犬のことを引きずることもなく、普段通りに生活をしていた。そうしているうちに自然と時間は過ぎていき、そして、次に兄が興味を持ったのは犬ではなく鳥だった。ある日、父に連れられて行った得意先の社長の家にインコがいた。確かにかわいらしいとは思ったが、僕は別段それ以上の感情を覚えることはなかった。しかし、兄は違った。インコのいる鳥籠の前から一向に動こうとしなかったのである。
「守、いい加減にしなさい」と父に厳しくたしなめられても、それでも兄はインコから視線を離さないまま、鳥籠の前から一歩たりとも動こうとしなかった。
最終的に、インコは僕たちの家にやってきた。根負けした父が、取引先の社長に頼んだのである。社長は朗らかに笑って、そんなに気に入ってもらえたのならと言ってすんなりとインコを兄へ渡してくれた。そのときの兄がどれほど嬉しそうな顔をしていたか、僕は今でも鮮明に覚えている。
インコは兄の部屋で飼育されることになった。その間、兄はインコに様々な言葉を教えていたようである。たまに僕も一緒になってインコと遊ぶことがあったが、そのインコは兄のことを名前ではなく苗字で呼んでいたのをよく覚えている。
やがてインコも死に、その後も兄は様々な生き物を飼った。それはヘビだったこともあるし、金魚だったりもした。いずれも兄は大層かわいがっていたが、やがては死んでいった。そして、それらの名前は皆、あのときの犬と同じものだった。
いつの日か、僕は兄から不思議な話を聞かされたことがある。兄曰く、「この世界とは違う場所にいた僕たちの話」なのだそうだ。
兄の聞かせる話の中では、僕たちは野球をしていた。兄がピッチャー、僕がキャッチャーをしていて、「猪狩兄弟バッテリー」などと呼ばれていたそうだ。僕は今日まで野球などしたこともなければ興味もなく、その話はあまりに突拍子もないことだった。それに、兄自身も野球とは全く関わりのない生活をしている。僕たち兄弟は、幼い頃からずっと父の会社を継ぐための教育と訓練を受けてきたのだから、そのような暇は一切なかったとも言い換えられる。
そうだと思っていたのに、野球の話をするときの兄の目はいつになく輝いていて、また野球に関する知識も深かった。兄の新しい一面を知り、僕は瞳を瞬かせたものだ。
「ああ、そうだ、ボクたちは野球をしていたんだ。進、お前もやっぱり忘れてしまったんだな。どういうわけか、これはボクしか覚えていないことらしい。ただ、あのとき一緒に野球をしていたチームメイトたちは、ボクたちのすぐ身近にいたりするんだ。不思議だろう?ボクにも理由は分からないが、きっと、そういう因果で結びつけられているのだと思う。最近、父の秘書になった蛇島さんは、進も知っているだろう?あの人とも、チームメイトだったんだよ。ああ、もちろん進も一緒だった。それから…」
兄は次々と名前を挙げていき、それはたいてい僕も知っている人の名前ばかりだった。僕が何も言わないのをいいことに、兄はこんこんと話を続けている。向ける眼差しはどこか遠く、とても懐かしいものを見ているような優しい顔をしていた。
「それから、この前公園を散歩していたときに高校生に会っただろう」
「ああ、そういえば、そうでしたね。ボールが飛んできて…」
「あいつの名前は、友沢亮というんだ」
「兄さん、知り合いだったんですか?」
「いや。初めて会った。それでも、ボクはあいつのことを知っている」
「…」
「あいつは、やっぱり野球をしていたな。嬉しかったよ。あいつは、やはりそういう星の元に生まれていたということなのだろう」
一人納得をしたらしい兄は、うんうんと頷いて上機嫌にマグカップを持ち上げた。しかし、一口だけコーヒーを飲んだ兄は、今まで話し込んでいたのが嘘のようにそれ以降は黙ってしまった。そんな兄の様子を眺めながら、僕は今までの話を聞いていて疑問に思ったことを口にした。
「兄さんも僕も、そんなに野球が好きだったのに、どうして今の僕たちは野球に無縁の生活をしているんでしょう」
兄はちらりと視線を上げて僕を見つめると、コーヒーに追加の砂糖を加えながら静かに息を吐いた。兄は取り上げたスプーンでコーヒーを掻き交ぜながら何も話さない。その様子は、何かを考えているようにも、何も考えていないようにも見えた。そのうち、僕が焦れて兄を急かす前に、兄は再びぽつりぽつりと話し始めた。
「ボクはいつも、事故にだけは気を付けるように、進に言っているね」
「ええ、特にトラックには気を付けるようにと…」
「ボクの知っている進は、あの世界で交通事故に遭ったんだ」
トラックに轢かれた進は、意識不明の重態ですぐに病院へ運ばれた。ボクの目の前で進は轢かれたんだ。ボクは何も出来ずに、救急車へ運ばれるお前を見ていることしか出来なかった…そう、あれは、ボクたちの通うあかつき大付属高校が甲子園まであと一歩という時のことだったな。幸い命を取り留めた進は、リハビリを頑張ったこともあってめきめきと回復していった。だが、お前の体はもう、野球が出来る状態ではなくなっていた…
ぬるくなったコーヒーを一気に飲み干しながら兄は続けた。
それでもお前は、野球がしたかったんだろう。いつの間にかお前は病院からいなくなっていたよ。嘘みたいな話かもしれないが、お前は野球をするために自分の身を売ったんだ。そういえば、この世界には存在していないな、お前を誘ったのはプロペラ団と名乗っている連中だった。やつらの経営する学校で野球をする代わりに、お前は事故で失った体の機能を治療してもらった。もっとも、最後に甲子園のマウンドに上がってから、二度と野球の出来ない体になってしまったんだがな…
空っぽのカップの底を眺めながら兄は話すのをやめなかった。積年の降り積もった気持ちがこぼれ落ちているようにも見えた。
とうとう選手としての道を絶たれた進は、スポーツドクターとして新しく歩み出したようだった。ようだった、というのは、あの世界の進にボクはひどく嫌われていてね。連絡を取ることもままならなかった。どうしてこんなことになったのか分からなかったボクには、どうすることも出来なかったんだ。一人のうのうとプロ野球選手になったボクが、やはり疎ましかったのかもしれない。ボクは最後までお前の本心を聞くことが出来なかったから、ただの憶測だけれどもね…
いよいよ話すことが尽きたらしい兄は、ゆったりとした動作で窓の外を眺めた。何かを探しているような素振りでもあった。
「兄さん」
「なんだい」
「どうして、いま僕にそんな話をしたんですか」
「さあ、どうしてだろう。ただの気まぐれだろうな」
「ねえ、兄さん」
「なんだい」
「金魚、死にましたね」
「…」
「兄さんは、何かをずっと探しているんですね」
「どうしてそう思う?」
「そのくらい、見ていれば分かりますよ」
「そうか」
「“パワプロさん”ですか」
「…」
「兄さんの、とても大切な人だったんですね」
「あいつは嘘つきだ」
「嘘つき?」
「家族になろうと、そんなことを、このボクに言うだけ言って、死んだんだ」
「亡くなったんですか」
「トラックに轢かれてね」
そのときの兄の顔を、僕は一生忘れることがないだろう。
その後、兄が新しく生き物を飼うことはなかった。父の跡を継ぎ、ほどなくして結婚した兄にはそのような暇がなくなってしまったのかもしれない。兄が妻に迎えた人は、大変器量が良く様々なことに気が行き届く聡明な女性だった。しかしその幸せは長く続くことがなかった。元々病弱だったその人は、子を一人生むとその後すぐに亡くなってしまったのだった。
子は一人。男子であった。兄は一人息子のその子を大層かわいがり、愛していた。しかし、兄の愛情表現は他人に比べてやや分かりにくいため、よく喧嘩もしていた。その度にその子は僕のところへ駆け寄ってきて、不平や不満を漏らしていったものだ。
まだ若い僕のことを「おじさん」と呼ぶことに抵抗があったらしいその子は、僕のことを「進くん」などと呼んで慕ってくれていた。
そうして物語は、いよいよ終幕へと向かうわけなのだが、ここから先は僕が見聞きしたものではなく、ずっと後になって兄から聞かされた話である―――
「父さん!」
「なんだい騒々しい。キミはいつまで経ってもマナーというものを覚えないね。全く、一体いつになったら…」
「猪狩、お前、猪狩なのか!」
「…」
「本当に、猪狩なんだな」
「全部思い出したんなら、もっと他に言うことがあるだろう?」
パワプロ。言うなり、パワプロはボクのことを思い切り抱きしめて、これ以上ないほど腕に力を込めた。その震える背に自身の腕を回しながら、ボクはひととき目を閉じる。
「家族になりたいと言って、ボクの子供になるやつがあるか、ばか。道理でいつまで経っても見つからないわけだよ」
「でも、犬になったり、鳥になったり、オレだって苦労したんだぜ」
「あれは、ボクが見つけてやったからだろう」
「猪狩、これで、やっと約束を果たせる」
「うん」
「オレはお前を一生一人にしない」
「どこかで聞いたセリフだな」
「待たせてごめん」
「うん…」
顔を見合わせて二人笑ったが、泣き笑いのような変な顔で、お互いにそれを茶化しながらぼろぼろとよく泣いた。毎日のように見ているはずの見慣れた顔が急に懐かしく感じられ、ボクは目を細める。パワプロは言った。
「家族になろう」
「もうなっているよ」
抱きしめた体には懐かしい陽だまりの匂いとほんの少しの汗臭さがあって、ボクはグラブはどこにしまってあっただろうかと、パワプロの顔を見ながら考えていた。
fin
――――――――――――――――
生まれ変わってもネタが好きすぎてこじらせた感満載
頭の中にずっとぼやぼやと漂っていたものが、大変素晴らしい作品を拝見したことで形が固まり書き上げるまでに至りました
二次創作最高
この広い世界ネタが被ることくらいあるさと思っていただけると幸いです
読んでくださって、ありがとう!
完全なるパラレルワールド
癖のある話のため、捏造偽造設定が苦手な方は閲覧を控えていただきますようお願い申し上げます
僕の名前は、猪狩進という。少し長くなるが、記録としてここに残しておこうと思い立ち、このたび筆を取った次第である。
これから話す出来事は、幼い頃兄が一匹の犬を拾ってきたところから始まる。
僕自身の記憶が定かではないので、あれは兄が3つか4つのときのことだと思う。あの日の兄は、何の前触れもなく唐突に犬を拾ってきた。きょとんとしている使用人や僕を差し置いて、兄はただ「飼う」の一点張りで、小さな手をいっぱいに使って抱いた犬を決して離そうとはしなかった。
当然反対した父と母は兄へやんわりと諭すように教え聞かせたが、兄は頑として主張を譲らなかった。今まで父や母に逆らったことのない兄があのような物言いをするのかと、僕は幼心に衝撃を受けたのを覚えている。静かに、それでも絶対に自分の主張を曲げずに兄は犬を手放さなかった。そうして、最終的に折れたのは両親の方だった。
それから、犬は家族になった。拾ってきた兄が世話を焼くのはもちろん、僕や父と母、使用人にもよく懐いたその犬は皆からかわいがられていた。犬の名前はパワプロといった。兄が付けたのだ。どうしてその名前なのかと僕は尋ねたことがあったが、兄はとうとう犬が死ぬまでその理由を言わなかった。
ある日、年をとった犬はとうとう弱って、安らかに死んでいった。寿命を全うしたのだ。朝、兄が様子を見に行ったときにはすでに冷たくなっていたという。その日のうちに、犬は庭に作られた墓へと埋められた。僕たちの家は一般的な家庭よりも裕福だったため、犬一匹の墓を庭に作ることくらい造作もないことであった。
犬が死んだ日、兄はもちろん落ち込んでいたが、決して泣かなかった。犬が墓へ埋められるとき、兄は「大切な人の名前」だと言って、最後にもう一度だけその名前を呼んでいた。まだあどけなさが残る子供の顔にしては随分と感傷的な表情で、その横顔は僕の中に今でも印象深く残っている。
兄は死んだ犬のことを引きずることもなく、普段通りに生活をしていた。そうしているうちに自然と時間は過ぎていき、そして、次に兄が興味を持ったのは犬ではなく鳥だった。ある日、父に連れられて行った得意先の社長の家にインコがいた。確かにかわいらしいとは思ったが、僕は別段それ以上の感情を覚えることはなかった。しかし、兄は違った。インコのいる鳥籠の前から一向に動こうとしなかったのである。
「守、いい加減にしなさい」と父に厳しくたしなめられても、それでも兄はインコから視線を離さないまま、鳥籠の前から一歩たりとも動こうとしなかった。
最終的に、インコは僕たちの家にやってきた。根負けした父が、取引先の社長に頼んだのである。社長は朗らかに笑って、そんなに気に入ってもらえたのならと言ってすんなりとインコを兄へ渡してくれた。そのときの兄がどれほど嬉しそうな顔をしていたか、僕は今でも鮮明に覚えている。
インコは兄の部屋で飼育されることになった。その間、兄はインコに様々な言葉を教えていたようである。たまに僕も一緒になってインコと遊ぶことがあったが、そのインコは兄のことを名前ではなく苗字で呼んでいたのをよく覚えている。
やがてインコも死に、その後も兄は様々な生き物を飼った。それはヘビだったこともあるし、金魚だったりもした。いずれも兄は大層かわいがっていたが、やがては死んでいった。そして、それらの名前は皆、あのときの犬と同じものだった。
いつの日か、僕は兄から不思議な話を聞かされたことがある。兄曰く、「この世界とは違う場所にいた僕たちの話」なのだそうだ。
兄の聞かせる話の中では、僕たちは野球をしていた。兄がピッチャー、僕がキャッチャーをしていて、「猪狩兄弟バッテリー」などと呼ばれていたそうだ。僕は今日まで野球などしたこともなければ興味もなく、その話はあまりに突拍子もないことだった。それに、兄自身も野球とは全く関わりのない生活をしている。僕たち兄弟は、幼い頃からずっと父の会社を継ぐための教育と訓練を受けてきたのだから、そのような暇は一切なかったとも言い換えられる。
そうだと思っていたのに、野球の話をするときの兄の目はいつになく輝いていて、また野球に関する知識も深かった。兄の新しい一面を知り、僕は瞳を瞬かせたものだ。
「ああ、そうだ、ボクたちは野球をしていたんだ。進、お前もやっぱり忘れてしまったんだな。どういうわけか、これはボクしか覚えていないことらしい。ただ、あのとき一緒に野球をしていたチームメイトたちは、ボクたちのすぐ身近にいたりするんだ。不思議だろう?ボクにも理由は分からないが、きっと、そういう因果で結びつけられているのだと思う。最近、父の秘書になった蛇島さんは、進も知っているだろう?あの人とも、チームメイトだったんだよ。ああ、もちろん進も一緒だった。それから…」
兄は次々と名前を挙げていき、それはたいてい僕も知っている人の名前ばかりだった。僕が何も言わないのをいいことに、兄はこんこんと話を続けている。向ける眼差しはどこか遠く、とても懐かしいものを見ているような優しい顔をしていた。
「それから、この前公園を散歩していたときに高校生に会っただろう」
「ああ、そういえば、そうでしたね。ボールが飛んできて…」
「あいつの名前は、友沢亮というんだ」
「兄さん、知り合いだったんですか?」
「いや。初めて会った。それでも、ボクはあいつのことを知っている」
「…」
「あいつは、やっぱり野球をしていたな。嬉しかったよ。あいつは、やはりそういう星の元に生まれていたということなのだろう」
一人納得をしたらしい兄は、うんうんと頷いて上機嫌にマグカップを持ち上げた。しかし、一口だけコーヒーを飲んだ兄は、今まで話し込んでいたのが嘘のようにそれ以降は黙ってしまった。そんな兄の様子を眺めながら、僕は今までの話を聞いていて疑問に思ったことを口にした。
「兄さんも僕も、そんなに野球が好きだったのに、どうして今の僕たちは野球に無縁の生活をしているんでしょう」
兄はちらりと視線を上げて僕を見つめると、コーヒーに追加の砂糖を加えながら静かに息を吐いた。兄は取り上げたスプーンでコーヒーを掻き交ぜながら何も話さない。その様子は、何かを考えているようにも、何も考えていないようにも見えた。そのうち、僕が焦れて兄を急かす前に、兄は再びぽつりぽつりと話し始めた。
「ボクはいつも、事故にだけは気を付けるように、進に言っているね」
「ええ、特にトラックには気を付けるようにと…」
「ボクの知っている進は、あの世界で交通事故に遭ったんだ」
トラックに轢かれた進は、意識不明の重態ですぐに病院へ運ばれた。ボクの目の前で進は轢かれたんだ。ボクは何も出来ずに、救急車へ運ばれるお前を見ていることしか出来なかった…そう、あれは、ボクたちの通うあかつき大付属高校が甲子園まであと一歩という時のことだったな。幸い命を取り留めた進は、リハビリを頑張ったこともあってめきめきと回復していった。だが、お前の体はもう、野球が出来る状態ではなくなっていた…
ぬるくなったコーヒーを一気に飲み干しながら兄は続けた。
それでもお前は、野球がしたかったんだろう。いつの間にかお前は病院からいなくなっていたよ。嘘みたいな話かもしれないが、お前は野球をするために自分の身を売ったんだ。そういえば、この世界には存在していないな、お前を誘ったのはプロペラ団と名乗っている連中だった。やつらの経営する学校で野球をする代わりに、お前は事故で失った体の機能を治療してもらった。もっとも、最後に甲子園のマウンドに上がってから、二度と野球の出来ない体になってしまったんだがな…
空っぽのカップの底を眺めながら兄は話すのをやめなかった。積年の降り積もった気持ちがこぼれ落ちているようにも見えた。
とうとう選手としての道を絶たれた進は、スポーツドクターとして新しく歩み出したようだった。ようだった、というのは、あの世界の進にボクはひどく嫌われていてね。連絡を取ることもままならなかった。どうしてこんなことになったのか分からなかったボクには、どうすることも出来なかったんだ。一人のうのうとプロ野球選手になったボクが、やはり疎ましかったのかもしれない。ボクは最後までお前の本心を聞くことが出来なかったから、ただの憶測だけれどもね…
いよいよ話すことが尽きたらしい兄は、ゆったりとした動作で窓の外を眺めた。何かを探しているような素振りでもあった。
「兄さん」
「なんだい」
「どうして、いま僕にそんな話をしたんですか」
「さあ、どうしてだろう。ただの気まぐれだろうな」
「ねえ、兄さん」
「なんだい」
「金魚、死にましたね」
「…」
「兄さんは、何かをずっと探しているんですね」
「どうしてそう思う?」
「そのくらい、見ていれば分かりますよ」
「そうか」
「“パワプロさん”ですか」
「…」
「兄さんの、とても大切な人だったんですね」
「あいつは嘘つきだ」
「嘘つき?」
「家族になろうと、そんなことを、このボクに言うだけ言って、死んだんだ」
「亡くなったんですか」
「トラックに轢かれてね」
そのときの兄の顔を、僕は一生忘れることがないだろう。
その後、兄が新しく生き物を飼うことはなかった。父の跡を継ぎ、ほどなくして結婚した兄にはそのような暇がなくなってしまったのかもしれない。兄が妻に迎えた人は、大変器量が良く様々なことに気が行き届く聡明な女性だった。しかしその幸せは長く続くことがなかった。元々病弱だったその人は、子を一人生むとその後すぐに亡くなってしまったのだった。
子は一人。男子であった。兄は一人息子のその子を大層かわいがり、愛していた。しかし、兄の愛情表現は他人に比べてやや分かりにくいため、よく喧嘩もしていた。その度にその子は僕のところへ駆け寄ってきて、不平や不満を漏らしていったものだ。
まだ若い僕のことを「おじさん」と呼ぶことに抵抗があったらしいその子は、僕のことを「進くん」などと呼んで慕ってくれていた。
そうして物語は、いよいよ終幕へと向かうわけなのだが、ここから先は僕が見聞きしたものではなく、ずっと後になって兄から聞かされた話である―――
「父さん!」
「なんだい騒々しい。キミはいつまで経ってもマナーというものを覚えないね。全く、一体いつになったら…」
「猪狩、お前、猪狩なのか!」
「…」
「本当に、猪狩なんだな」
「全部思い出したんなら、もっと他に言うことがあるだろう?」
パワプロ。言うなり、パワプロはボクのことを思い切り抱きしめて、これ以上ないほど腕に力を込めた。その震える背に自身の腕を回しながら、ボクはひととき目を閉じる。
「家族になりたいと言って、ボクの子供になるやつがあるか、ばか。道理でいつまで経っても見つからないわけだよ」
「でも、犬になったり、鳥になったり、オレだって苦労したんだぜ」
「あれは、ボクが見つけてやったからだろう」
「猪狩、これで、やっと約束を果たせる」
「うん」
「オレはお前を一生一人にしない」
「どこかで聞いたセリフだな」
「待たせてごめん」
「うん…」
顔を見合わせて二人笑ったが、泣き笑いのような変な顔で、お互いにそれを茶化しながらぼろぼろとよく泣いた。毎日のように見ているはずの見慣れた顔が急に懐かしく感じられ、ボクは目を細める。パワプロは言った。
「家族になろう」
「もうなっているよ」
抱きしめた体には懐かしい陽だまりの匂いとほんの少しの汗臭さがあって、ボクはグラブはどこにしまってあっただろうかと、パワプロの顔を見ながら考えていた。
fin
――――――――――――――――
生まれ変わってもネタが好きすぎてこじらせた感満載
頭の中にずっとぼやぼやと漂っていたものが、大変素晴らしい作品を拝見したことで形が固まり書き上げるまでに至りました
二次創作最高
この広い世界ネタが被ることくらいあるさと思っていただけると幸いです
読んでくださって、ありがとう!
sweet home
主守
「猪狩、家着いたぞ。家っていってもオレんちだけど」
靴を脱ぐのもそこそこに、手探りで壁にあるスイッチを押す。パチンと明かりをつけてみても相変わらず眠ったままの猪狩が起きることはなく、オレはやれやれと言いながら足を使って猪狩の靴を脱がしてやった。そのまま半分引きずるようにしてソファまで連れて行く。一連の動作は慣れ親しんだいつもの動きだった。
酒の弱い猪狩はみんなで飲みに行ってもグラス一杯を飲み切る前にだいたいいつもこういう状態になってしまう。ほろほろと気持ちよく酔った後は酔いつぶれて寝てしまうのが常で、そんな猪狩を運ぶのは、なぜか昔からオレの仕事だった。
気の知れた仲間で酒を飲み、酔いつぶれた猪狩を抱えてタクシーへ、そのまま自宅まで運んで朝を迎える、一体何度繰り返された日常だろうか。チームメイトも当然のこととして心得ているので、酔った猪狩とオレを残して先に帰ってしまうこともしばしばだった。
「猪狩、みんな帰るって」肩を揺らして呼び掛けてみてもやすらかな寝息が聞こえてくるばかりで猪狩が起きることはない。やっぱり今日も残されてしまったオレは嘆息しながら猪狩のほっぺたをつついてみたのだが、ふにふにとつねってみても猪狩は寝ているばかりで何も答えないのだった。
ソファに座らせた猪狩は羨ましくなるくらいに気持ちの良さそうな寝息を立てて寝ていた。オレの苦労も知らずにこいつときたらいつもこの調子である。すぐ顔に出る猪狩は今日も血色の良いピンク色になっていた。色が白いこいつは余計に顔色に出やすい。
飲みに行くだけなのだからもっとラフな格好をすればいいのに、今日もかっちりと着込まれた猪狩のジャケットに手を伸ばす。手早く脱がし、ついでにシャツのボタンも上からひとつふたつ開けてやった。首が締まったままでは寝苦しいだろう。
くたんと力ない猪狩を抱き上げてベッドまで運ぶのも当然オレの仕事だ。それはいわゆる「お姫様抱っこ」と呼ばれる格好で、初めのうちこそどうせならかわいい女の子が良かったなあなどと馬鹿なことを考えていたのだが、そのうちどうでもよくなった。そんなことを言っていても現実は変わらないのである。
猪狩は、男にしては随分と軽い方だった。あいにく猪狩以外の男を抱きかかえたことがないのでそもそも比べることができないのだが、それでも確かに軽いと思う。何年も掛けて鍛え上げられた一流のスポーツ人の体ではあったが、それでも猪狩はまだ細い。
30を過ぎてなお、いまだ十数年前の高校生だったあの頃の面影が残っているなどと言ったら猪狩は怒るだろうか。猪狩は怒ったり笑ったりと忙しい。仲が良いのか、悪いのか、怒ったり怒られたり、笑ったり笑われたりしながら、それでもオレたちは今日までずっと一緒に過ごしてきた。思えば不思議な縁である。
ベッドに寝かせた猪狩に布団をかけ、オレは水を用意するためにキッチンへ向かった。冷蔵庫をぱかりと開けて取り出すのはミネラルウォーターである。オレは飲まないので猪狩専用の水だった。水道を捻れば出てくるものを、オレはわざわざ買ったりしない。そういうと猪狩は、無機塩添加の調整がどうだとか軟水と硬水の違いについてだとか長ったらしい講釈を垂れてくれる。とてもありがたいので、オレはいつも右から左へと聞き流すばかりだ。
ミネラルウォーターの効能も凄さもこれっぽっちも分からないが、猪狩の好きな水の種類が分かっていればオレにとっては十分である。
蛇口を捻るのが面倒だったので、オレは猪狩の気に入りであるそれをコップに注ぐことなくそのまま飲んだ。2リットルサイズなので結構重たい。猪狩が見ていれば、行儀が悪いだのなんだのと言われるに違いなかった。
一気に飲み干して息をつきながら、オレはグラスを取り出して猪狩の分を注いだ。そのままグラスを持って、寝室まで戻る。起きてすぐ水を欲しがる猪狩のためだった。全く、ここまでしてやるオレはどうしようもなく人が良く、まさに至れり尽くせりの状態である。それでも、好きでやっているのだから仕方がない。酔った頭でいろいろと考えても仕様のないことだ。
寝室に戻ったオレは諸々を脱ぎ捨ててシャツ一枚だけの姿になってベッドにもぐり込もうとした。そこには当然すでに猪狩が横になっている。初めのうちこそ、猪狩がこうして寝ている日はオレがソファで眠るようにしていたが、いつの間にか夏が過ぎ冬が来る頃にはそれもだんだんばからしくなり、なにより真冬のソファはとても寒かったので、オレは猪狩の寝ているベッドにそのままもぐり込んだのだった。初めて猪狩と同じ布団で寝た日、体温が高いらしい猪狩の温もりがとても心地良かったことを覚えている。
朝起きた猪狩は当然怒っていたし、なぜボクがキミと一緒に寝なくてはいけないんだ!なんて言っていた。しかしながら、それはこっちのセリフである。オレはここの家主であるし、文句があるのなら猪狩は自分の家で寝ればいいのだ。などと言ったら後が怖いので、オレは、いーじゃんべつにと適当に流してその場をやり過ごした。
そのあとはもうなんとなくの流れで、こうして飲んできた日の夜はそのまま猪狩と一緒に寝ることが当たり前になっていた。さすがに慣れたらしい猪狩はもう何も言わなくなっていた。慣れとはげに恐ろしきものよ。
野球で飯を食べそこそこ稼げるようになった頃、ちょっとした贅沢のつもりで買ったダブルベッドは今や猪狩と使うためにあつらえられたもののようになっていた。なんということだろう。
明日はオフだ。猪狩がこんな風に酔いつぶれるのは、翌日がオフであるか、チームが日本一になったときだけだ。
ふあ、と大きく欠伸をして布団をめくる。朝になったら、オレよりも早く起き出した猪狩が勝手にシャワーを浴びて、まだ寝ているオレを起こしながらモーニングコーヒーを要求してくるに違いないのだ。これもいつものことだった。
無理やり布団をはぎ取られる図が安易に想像できてオレはほんの少し笑った。朝が弱いオレはあと少しと言って丸くなり、そんなオレを猪狩が急かすようにたたき起こす。
ああ、なんだか、これって、
「夫婦みたいじゃん」
するりと口から零れた言葉は存外に違和感がなかった。なんということだろう。酔っているんだろうか。それでもべつにいいやと思ってオレは布団にもぐりこむ。今日は一段と頭が働いていないらしい。
「もういっそ結婚しちゃうか、猪狩」
自分で言いながらすぐに布団の心地よさに意識を奪われてしまったので、ただでさえ顔の赤い猪狩が耳まで真っ赤にしていた瞬間をオレは見逃してしまうのだった。
―――――――――――――――
守さんはほんとに寝てる日と起きてる日があったらかわいい
しゅまも
「猪狩、家着いたぞ。家っていってもオレんちだけど」
靴を脱ぐのもそこそこに、手探りで壁にあるスイッチを押す。パチンと明かりをつけてみても相変わらず眠ったままの猪狩が起きることはなく、オレはやれやれと言いながら足を使って猪狩の靴を脱がしてやった。そのまま半分引きずるようにしてソファまで連れて行く。一連の動作は慣れ親しんだいつもの動きだった。
酒の弱い猪狩はみんなで飲みに行ってもグラス一杯を飲み切る前にだいたいいつもこういう状態になってしまう。ほろほろと気持ちよく酔った後は酔いつぶれて寝てしまうのが常で、そんな猪狩を運ぶのは、なぜか昔からオレの仕事だった。
気の知れた仲間で酒を飲み、酔いつぶれた猪狩を抱えてタクシーへ、そのまま自宅まで運んで朝を迎える、一体何度繰り返された日常だろうか。チームメイトも当然のこととして心得ているので、酔った猪狩とオレを残して先に帰ってしまうこともしばしばだった。
「猪狩、みんな帰るって」肩を揺らして呼び掛けてみてもやすらかな寝息が聞こえてくるばかりで猪狩が起きることはない。やっぱり今日も残されてしまったオレは嘆息しながら猪狩のほっぺたをつついてみたのだが、ふにふにとつねってみても猪狩は寝ているばかりで何も答えないのだった。
ソファに座らせた猪狩は羨ましくなるくらいに気持ちの良さそうな寝息を立てて寝ていた。オレの苦労も知らずにこいつときたらいつもこの調子である。すぐ顔に出る猪狩は今日も血色の良いピンク色になっていた。色が白いこいつは余計に顔色に出やすい。
飲みに行くだけなのだからもっとラフな格好をすればいいのに、今日もかっちりと着込まれた猪狩のジャケットに手を伸ばす。手早く脱がし、ついでにシャツのボタンも上からひとつふたつ開けてやった。首が締まったままでは寝苦しいだろう。
くたんと力ない猪狩を抱き上げてベッドまで運ぶのも当然オレの仕事だ。それはいわゆる「お姫様抱っこ」と呼ばれる格好で、初めのうちこそどうせならかわいい女の子が良かったなあなどと馬鹿なことを考えていたのだが、そのうちどうでもよくなった。そんなことを言っていても現実は変わらないのである。
猪狩は、男にしては随分と軽い方だった。あいにく猪狩以外の男を抱きかかえたことがないのでそもそも比べることができないのだが、それでも確かに軽いと思う。何年も掛けて鍛え上げられた一流のスポーツ人の体ではあったが、それでも猪狩はまだ細い。
30を過ぎてなお、いまだ十数年前の高校生だったあの頃の面影が残っているなどと言ったら猪狩は怒るだろうか。猪狩は怒ったり笑ったりと忙しい。仲が良いのか、悪いのか、怒ったり怒られたり、笑ったり笑われたりしながら、それでもオレたちは今日までずっと一緒に過ごしてきた。思えば不思議な縁である。
ベッドに寝かせた猪狩に布団をかけ、オレは水を用意するためにキッチンへ向かった。冷蔵庫をぱかりと開けて取り出すのはミネラルウォーターである。オレは飲まないので猪狩専用の水だった。水道を捻れば出てくるものを、オレはわざわざ買ったりしない。そういうと猪狩は、無機塩添加の調整がどうだとか軟水と硬水の違いについてだとか長ったらしい講釈を垂れてくれる。とてもありがたいので、オレはいつも右から左へと聞き流すばかりだ。
ミネラルウォーターの効能も凄さもこれっぽっちも分からないが、猪狩の好きな水の種類が分かっていればオレにとっては十分である。
蛇口を捻るのが面倒だったので、オレは猪狩の気に入りであるそれをコップに注ぐことなくそのまま飲んだ。2リットルサイズなので結構重たい。猪狩が見ていれば、行儀が悪いだのなんだのと言われるに違いなかった。
一気に飲み干して息をつきながら、オレはグラスを取り出して猪狩の分を注いだ。そのままグラスを持って、寝室まで戻る。起きてすぐ水を欲しがる猪狩のためだった。全く、ここまでしてやるオレはどうしようもなく人が良く、まさに至れり尽くせりの状態である。それでも、好きでやっているのだから仕方がない。酔った頭でいろいろと考えても仕様のないことだ。
寝室に戻ったオレは諸々を脱ぎ捨ててシャツ一枚だけの姿になってベッドにもぐり込もうとした。そこには当然すでに猪狩が横になっている。初めのうちこそ、猪狩がこうして寝ている日はオレがソファで眠るようにしていたが、いつの間にか夏が過ぎ冬が来る頃にはそれもだんだんばからしくなり、なにより真冬のソファはとても寒かったので、オレは猪狩の寝ているベッドにそのままもぐり込んだのだった。初めて猪狩と同じ布団で寝た日、体温が高いらしい猪狩の温もりがとても心地良かったことを覚えている。
朝起きた猪狩は当然怒っていたし、なぜボクがキミと一緒に寝なくてはいけないんだ!なんて言っていた。しかしながら、それはこっちのセリフである。オレはここの家主であるし、文句があるのなら猪狩は自分の家で寝ればいいのだ。などと言ったら後が怖いので、オレは、いーじゃんべつにと適当に流してその場をやり過ごした。
そのあとはもうなんとなくの流れで、こうして飲んできた日の夜はそのまま猪狩と一緒に寝ることが当たり前になっていた。さすがに慣れたらしい猪狩はもう何も言わなくなっていた。慣れとはげに恐ろしきものよ。
野球で飯を食べそこそこ稼げるようになった頃、ちょっとした贅沢のつもりで買ったダブルベッドは今や猪狩と使うためにあつらえられたもののようになっていた。なんということだろう。
明日はオフだ。猪狩がこんな風に酔いつぶれるのは、翌日がオフであるか、チームが日本一になったときだけだ。
ふあ、と大きく欠伸をして布団をめくる。朝になったら、オレよりも早く起き出した猪狩が勝手にシャワーを浴びて、まだ寝ているオレを起こしながらモーニングコーヒーを要求してくるに違いないのだ。これもいつものことだった。
無理やり布団をはぎ取られる図が安易に想像できてオレはほんの少し笑った。朝が弱いオレはあと少しと言って丸くなり、そんなオレを猪狩が急かすようにたたき起こす。
ああ、なんだか、これって、
「夫婦みたいじゃん」
するりと口から零れた言葉は存外に違和感がなかった。なんということだろう。酔っているんだろうか。それでもべつにいいやと思ってオレは布団にもぐりこむ。今日は一段と頭が働いていないらしい。
「もういっそ結婚しちゃうか、猪狩」
自分で言いながらすぐに布団の心地よさに意識を奪われてしまったので、ただでさえ顔の赤い猪狩が耳まで真っ赤にしていた瞬間をオレは見逃してしまうのだった。
―――――――――――――――
守さんはほんとに寝てる日と起きてる日があったらかわいい
しゅまも
うたうように
主守
「…猪狩くん?」
はっとして顔を上げると、教壇に立っていたはずの教師が目の前に立っていた。仰ぎ見ると、気遣うような目でこちらを見ている視線とぶつかる。
そこでようやくボクは、今が授業中であり、古典の時間で、今の今まで教師の話を全く聞いていなかったということに気が付いた。
「猪狩くんがぼんやりしてるなんて珍しいわね。体調悪いの?大丈夫?」
「あ、いえ。大丈夫です、すみませんでした」
「そう、ならいいんだけど。じゃあ、今のところ、訳してくれる?」
「はい」
教壇に戻る教師の背中を見届けてから、教科書に視線を落とす。得意な古典だ。難しいことはない。
「“川の瀬の流れが速く、岩にせき止められた急流は分かれるが、二つに分かれてもまた一つに合流するように、今は別れ別れになっても、また逢うことができると信じている”」
「そうね、完璧な訳だわ。この歌は、崇徳院が詠んだもので…」
ふう、と息をついて、ボクはそそくさと板書の続きを始めた。続きといってもノートは真っ白で、今日はまだ何も書いていないということに気付く。あわててペンを走らせ、蛍光ペンで大切なところをマークする。
天才猪狩守が、野球のみの天才だと思ったらそれは大きな間違いである。僕は勉学も得意だ。だから、授業中はもちろん集中していなくてはならない。教師が口頭で言うことをさらさらと書き留め、ここはテストに出そうだと大きく赤で印をつけた。この教師は板書したところからはほとんどテストに出ないのが特徴だった。
あらかた書き終えて息をつく。ふっと窓の外を見ると文句のない晴天だった。雲はひとつもなく、能天気なほどに晴れ渡っている。まるであいつみたいだ。
中学ぶりに再会したあいつは、何も変わっていなかった。全国大会で見たあのときと同じように、このボクからなんなくヒットを打っていったのだった。相変わらずセコい当たりではあったけれど、あいつに打たれるまで完封していたボクにとってはそれだけで十分すぎるほどだった。
ああ、早く野球がしたい。血のにじむような練習も、吐くほどの特訓も、苦だと思ったことはない。努力は裏切らないということをボクはよく知っていた。練習をすればその分だけ、それは自分に返ってくる。それこそが、ボクが天才猪狩守という所以のすべてである。
次に会うとき、あいつは一体どんな顔でボクの前に立ちふさがってくるのだろう。必ずもう一度ボクの前に現れる、そんなある種の確信めいた自信があった。
敵であるにもかかわらず、どんな風に仕上げてくるのか楽しみに思う気持ちがいちばんに先立って、ボクはどうしようもない胸の高鳴りを隠せないでいた。こんな気持ちになるのはいつぶりだろう。ああ、早くマウンドに立ちたい。投げたい。マウンドで打者と対峙するあの瞬間、ボールがミットに収まる快感、空を切るバット…
「先ほどの歌についてですが」
はっと、我に返った。またしても、教師の話など全く聞いていないのだった。黒板の半分はもう消されていて、新しい文字がびっしりと並んでいた。慌ててペンを握りなおす。
「これは、たとえ今は邪魔が入って離れ離れとなっていても、後にはきっと一緒になろうとする強い決意の歌です。激情と力強い意志の中で恋心を歌っており…」
教師の言葉に、胸が跳ねた。一体何に反応したのか自分でもよく分からない。ごまかすように教科書を繰って、歌意の部分に目を落とした。
それを読んでいると、ボクはどうしようもなくドキドキしてしまっていてもたってもいられない気持ちになるのだった。どうしたというのだろう。今日のボクはなんだかおかしい。教師の言うとおり、体調が優れないのかもしれない。
おかしいと言えば、あいつに会ってからのボクはずっと変な感じのままなのである。胸の真ん中にもやもやとしたわだかまりがあるようで、急にあいつの顔が浮かんでは息苦しくなったりするし、ほうっておくと顔が熱くなって困った。一体ボクはどうしてしまったんだろう。
早く部活に行きたい。野球をしているときだけは、この正体不明のドキドキを忘れていられるのだった。
「では、今日はここまで。みなさん、来週の小テストでは良い点をとってくださいね」
手早く黒板を消した教師はそのように言ってにっこりと笑った。どうやら来週はテストがあるらしい。またも教師の話を全然聞いていなかったため、ボクはテスト範囲を聞き逃すというあり得ない失態をしてしまうのだった。
いろいろと諦めて窓の外を見ると、やっぱり外は完璧なまでの晴天で、空は澄みわたるように青かった。
さあ、授業は終わりだ。ボクはさっさと机の上を片づけると勢いよく席を立った。
――――――――
瀬をはやみ 岩にせかるる 滝川の われても末に あはむとぞ思ふ
掛詞が好きなうたでした
「…猪狩くん?」
はっとして顔を上げると、教壇に立っていたはずの教師が目の前に立っていた。仰ぎ見ると、気遣うような目でこちらを見ている視線とぶつかる。
そこでようやくボクは、今が授業中であり、古典の時間で、今の今まで教師の話を全く聞いていなかったということに気が付いた。
「猪狩くんがぼんやりしてるなんて珍しいわね。体調悪いの?大丈夫?」
「あ、いえ。大丈夫です、すみませんでした」
「そう、ならいいんだけど。じゃあ、今のところ、訳してくれる?」
「はい」
教壇に戻る教師の背中を見届けてから、教科書に視線を落とす。得意な古典だ。難しいことはない。
「“川の瀬の流れが速く、岩にせき止められた急流は分かれるが、二つに分かれてもまた一つに合流するように、今は別れ別れになっても、また逢うことができると信じている”」
「そうね、完璧な訳だわ。この歌は、崇徳院が詠んだもので…」
ふう、と息をついて、ボクはそそくさと板書の続きを始めた。続きといってもノートは真っ白で、今日はまだ何も書いていないということに気付く。あわててペンを走らせ、蛍光ペンで大切なところをマークする。
天才猪狩守が、野球のみの天才だと思ったらそれは大きな間違いである。僕は勉学も得意だ。だから、授業中はもちろん集中していなくてはならない。教師が口頭で言うことをさらさらと書き留め、ここはテストに出そうだと大きく赤で印をつけた。この教師は板書したところからはほとんどテストに出ないのが特徴だった。
あらかた書き終えて息をつく。ふっと窓の外を見ると文句のない晴天だった。雲はひとつもなく、能天気なほどに晴れ渡っている。まるであいつみたいだ。
中学ぶりに再会したあいつは、何も変わっていなかった。全国大会で見たあのときと同じように、このボクからなんなくヒットを打っていったのだった。相変わらずセコい当たりではあったけれど、あいつに打たれるまで完封していたボクにとってはそれだけで十分すぎるほどだった。
ああ、早く野球がしたい。血のにじむような練習も、吐くほどの特訓も、苦だと思ったことはない。努力は裏切らないということをボクはよく知っていた。練習をすればその分だけ、それは自分に返ってくる。それこそが、ボクが天才猪狩守という所以のすべてである。
次に会うとき、あいつは一体どんな顔でボクの前に立ちふさがってくるのだろう。必ずもう一度ボクの前に現れる、そんなある種の確信めいた自信があった。
敵であるにもかかわらず、どんな風に仕上げてくるのか楽しみに思う気持ちがいちばんに先立って、ボクはどうしようもない胸の高鳴りを隠せないでいた。こんな気持ちになるのはいつぶりだろう。ああ、早くマウンドに立ちたい。投げたい。マウンドで打者と対峙するあの瞬間、ボールがミットに収まる快感、空を切るバット…
「先ほどの歌についてですが」
はっと、我に返った。またしても、教師の話など全く聞いていないのだった。黒板の半分はもう消されていて、新しい文字がびっしりと並んでいた。慌ててペンを握りなおす。
「これは、たとえ今は邪魔が入って離れ離れとなっていても、後にはきっと一緒になろうとする強い決意の歌です。激情と力強い意志の中で恋心を歌っており…」
教師の言葉に、胸が跳ねた。一体何に反応したのか自分でもよく分からない。ごまかすように教科書を繰って、歌意の部分に目を落とした。
それを読んでいると、ボクはどうしようもなくドキドキしてしまっていてもたってもいられない気持ちになるのだった。どうしたというのだろう。今日のボクはなんだかおかしい。教師の言うとおり、体調が優れないのかもしれない。
おかしいと言えば、あいつに会ってからのボクはずっと変な感じのままなのである。胸の真ん中にもやもやとしたわだかまりがあるようで、急にあいつの顔が浮かんでは息苦しくなったりするし、ほうっておくと顔が熱くなって困った。一体ボクはどうしてしまったんだろう。
早く部活に行きたい。野球をしているときだけは、この正体不明のドキドキを忘れていられるのだった。
「では、今日はここまで。みなさん、来週の小テストでは良い点をとってくださいね」
手早く黒板を消した教師はそのように言ってにっこりと笑った。どうやら来週はテストがあるらしい。またも教師の話を全然聞いていなかったため、ボクはテスト範囲を聞き逃すというあり得ない失態をしてしまうのだった。
いろいろと諦めて窓の外を見ると、やっぱり外は完璧なまでの晴天で、空は澄みわたるように青かった。
さあ、授業は終わりだ。ボクはさっさと机の上を片づけると勢いよく席を立った。
――――――――
瀬をはやみ 岩にせかるる 滝川の われても末に あはむとぞ思ふ
掛詞が好きなうたでした
星降り
2010イメージ/主守
恋愛運急上昇、気になる彼と急接近の予感!?
高校の同級生が気になっているあなたは素直な気持ちを伝えると吉!
ラッキーカラー:ブルー
ラッキースポット:二軍球場
ぶるぶると震えながらパワスポを握りしめていた猪狩守は、ふうと大きく息を吐き出し手元の雑誌を机に置いた。
愛読のパワスポ、何気なく目に入った記事は占いコーナーのページであった。占いなどくだらない、そう思いながらもページを繰って自身の星座を探したのはほんの気まぐれである。一枚ページをめくると目当ての記事は見つかり、そこにはかわいいのかどうか判断に困る、微妙な顔をした山羊がこちらを見ていた。
普段はこんな記事気にもとめないのだが、なぜだか今日は読んでみようという気になった。手の平にじんわりと汗が浮かんでくる。くだらない、確かにくだらないけれど、まるで信憑性がないとも思えなかった。短い文章の羅列をもう一度上から下までなぞる。もしもこれが自分のことを言っているとしたら、そう思うといてもたってもいられないというのは本当だった。
思い浮かぶ顔はひとつしかない。気になる彼。高校の同級生。自分の気持ちを置いてけぼりにして、胸ばかりがドキドキと高鳴っている。ばかげている、だけど。
幸い時間には余裕があった。それに、二軍球場の近くに用事もある。ひとつ頷くと、猪狩は青いジャケットを手にとり、タクシーを呼ぶべく携帯電話を探した。
「キミ、また手がとまってるぞ」
「わー!オレ、ホソミーの巻頭グラビアなんか見てないって!」
「なに一人で騒いでいるんだい」
紐で結んだ雑誌を脇によけて、猪狩は額の汗をぬぐった。これだけの量になると、たかが雑誌の片付けとはいえかなりの重労働であった。山積みにされた雑誌の束、一体これで何年分になるのだろう。
今日は久々のオフである。猪狩は、片付けのできないパワプロの尻を叩きながらわざわざオフを返上して部屋の掃除を手伝っていた。そうだというのに、当のパワプロときたらたびたび手を休めてはよそごとをしている。何かを引っ張り出してきてはいちいち騒いだり眺めたりと作業はちっとも進まない。
手元を見ると、そこにはパワスポが握られていた。どうやらパワプロは、ホソミーという女子アナの巻頭グラビアページを読むのに忙しかったらしい。フンと鼻をならし、猪狩は呆れた口調で話し出した。
「全く。こんな古いものをとっておいてあるなんて信じられないね」
「だって、捨てるタイミングとか分かんなくて」
「だからキミは片付けができないんだよ」
おっしゃる通りでございます…一応反省の意を示しているらしいパワプロは神妙に頷くと今度こそ雑誌の整頓を始めた。それを見て猪狩も再び作業に戻る。ふと、先ほどパワプロが見ていたパワスポが目に入った。今度は真剣に片づけているらしいパワプロに隠れて猪狩はこっそりとページをめくってみた。表紙になんとなく見覚えがあったのだ。
ぱらぱらと流し読みをしながら、星占いのページが目に入った。普段はこんなもの気にもとめないのだが、イラストとして描かれている変な顔の山羊が記憶の糸に引っかかった。
山羊と目が合い、なんとなく感じていた既視感がはっきりとした記憶となって猪狩の中に蘇る。
「なに笑ってんだよ猪狩」
「いや、ちょっと懐かしくてね」
「?なにが?」
「ボクも若かったなと思っただけだよ」
要領を得ない顔でパワプロは首を捻っている。猪狩だけが口元を緩めて微笑んでいた。若い記憶だった。
思えば、あの占いは恐ろしいほどに的中していた。それは、今ここにいる猪狩とパワプロが証明していることだった。
温かな感情が猪狩を満たし、たまにはこういうのもいいかもしれないと猪狩は人知れず微笑む。
「なあパワプロ」
「ん?」
「キミは、なんでボクがいまここにいるんだと思う?」
「それは、だから、オレが片付けできないからだろ。ごめんって。今度はちゃんとやるよ」
「半分は正解で、半分は不正解だ」
「というと?」
「ボクはキミのことが好きだから、いまここにいるんだ」
きょとん、パワプロは大きな目をぱちくりと瞬かせて猪狩を見つめた。
そんなパワプロに猪狩はじりじりとにじり寄る。フローリングの床の上、指先が触れ合った。
「えっと?猪狩?」
「キミはどうなんだい」
「え?」
「ボクのこと、好きか」
そんなの、口ごもったパワプロはそれ以上言葉を紡ぐことができなくなってしまった。猪狩の唇に吸い込まれてしまったからである。
戯れのように重なった唇はすぐに離れた。そのまま触れるほど近い距離で猪狩は続ける。
「たまにはね。素直になるのもいいものだよ」
「なんかオレ全然ついていけてないんだけど…」
「ハハ、だからキミは鈍くさいしモテないんだよ」
モテないは余計だろ、ぷりぷりと怒るパワプロに猪狩は笑っている。昔から変わらない、これが二人の距離だった。
「ところで、キミはさっきからなにをしているんだ」
「え?」
「勝手に服を脱がさないでくれるかい」
楽しそうにぷちぷちとボタンを外しているパワプロの手を制する。しかし、掴んだ手は逆に引き寄せられ、そのまま唇を押し付けられてしまった。にやりと笑ったパワプロは猪狩の耳元で囁く。
「だって、ちゃんと返事をしないと」
「返事って」
「オレがお前のこと好きかどうか」
「そんなまわりくどいことしなくても分かってるさ」
「いーや、お前は分かってないね、全然分かってない」
愛してるよ、猪狩
本日二度目のキスはあきれるほどに甘く、猪狩はうっとりと目を閉じながらたまにはこんな日も悪くないと考えていた。
―――――――――――――
ただのヤオイ 主守っていいですね
恋愛運急上昇、気になる彼と急接近の予感!?
高校の同級生が気になっているあなたは素直な気持ちを伝えると吉!
ラッキーカラー:ブルー
ラッキースポット:二軍球場
ぶるぶると震えながらパワスポを握りしめていた猪狩守は、ふうと大きく息を吐き出し手元の雑誌を机に置いた。
愛読のパワスポ、何気なく目に入った記事は占いコーナーのページであった。占いなどくだらない、そう思いながらもページを繰って自身の星座を探したのはほんの気まぐれである。一枚ページをめくると目当ての記事は見つかり、そこにはかわいいのかどうか判断に困る、微妙な顔をした山羊がこちらを見ていた。
普段はこんな記事気にもとめないのだが、なぜだか今日は読んでみようという気になった。手の平にじんわりと汗が浮かんでくる。くだらない、確かにくだらないけれど、まるで信憑性がないとも思えなかった。短い文章の羅列をもう一度上から下までなぞる。もしもこれが自分のことを言っているとしたら、そう思うといてもたってもいられないというのは本当だった。
思い浮かぶ顔はひとつしかない。気になる彼。高校の同級生。自分の気持ちを置いてけぼりにして、胸ばかりがドキドキと高鳴っている。ばかげている、だけど。
幸い時間には余裕があった。それに、二軍球場の近くに用事もある。ひとつ頷くと、猪狩は青いジャケットを手にとり、タクシーを呼ぶべく携帯電話を探した。
「キミ、また手がとまってるぞ」
「わー!オレ、ホソミーの巻頭グラビアなんか見てないって!」
「なに一人で騒いでいるんだい」
紐で結んだ雑誌を脇によけて、猪狩は額の汗をぬぐった。これだけの量になると、たかが雑誌の片付けとはいえかなりの重労働であった。山積みにされた雑誌の束、一体これで何年分になるのだろう。
今日は久々のオフである。猪狩は、片付けのできないパワプロの尻を叩きながらわざわざオフを返上して部屋の掃除を手伝っていた。そうだというのに、当のパワプロときたらたびたび手を休めてはよそごとをしている。何かを引っ張り出してきてはいちいち騒いだり眺めたりと作業はちっとも進まない。
手元を見ると、そこにはパワスポが握られていた。どうやらパワプロは、ホソミーという女子アナの巻頭グラビアページを読むのに忙しかったらしい。フンと鼻をならし、猪狩は呆れた口調で話し出した。
「全く。こんな古いものをとっておいてあるなんて信じられないね」
「だって、捨てるタイミングとか分かんなくて」
「だからキミは片付けができないんだよ」
おっしゃる通りでございます…一応反省の意を示しているらしいパワプロは神妙に頷くと今度こそ雑誌の整頓を始めた。それを見て猪狩も再び作業に戻る。ふと、先ほどパワプロが見ていたパワスポが目に入った。今度は真剣に片づけているらしいパワプロに隠れて猪狩はこっそりとページをめくってみた。表紙になんとなく見覚えがあったのだ。
ぱらぱらと流し読みをしながら、星占いのページが目に入った。普段はこんなもの気にもとめないのだが、イラストとして描かれている変な顔の山羊が記憶の糸に引っかかった。
山羊と目が合い、なんとなく感じていた既視感がはっきりとした記憶となって猪狩の中に蘇る。
「なに笑ってんだよ猪狩」
「いや、ちょっと懐かしくてね」
「?なにが?」
「ボクも若かったなと思っただけだよ」
要領を得ない顔でパワプロは首を捻っている。猪狩だけが口元を緩めて微笑んでいた。若い記憶だった。
思えば、あの占いは恐ろしいほどに的中していた。それは、今ここにいる猪狩とパワプロが証明していることだった。
温かな感情が猪狩を満たし、たまにはこういうのもいいかもしれないと猪狩は人知れず微笑む。
「なあパワプロ」
「ん?」
「キミは、なんでボクがいまここにいるんだと思う?」
「それは、だから、オレが片付けできないからだろ。ごめんって。今度はちゃんとやるよ」
「半分は正解で、半分は不正解だ」
「というと?」
「ボクはキミのことが好きだから、いまここにいるんだ」
きょとん、パワプロは大きな目をぱちくりと瞬かせて猪狩を見つめた。
そんなパワプロに猪狩はじりじりとにじり寄る。フローリングの床の上、指先が触れ合った。
「えっと?猪狩?」
「キミはどうなんだい」
「え?」
「ボクのこと、好きか」
そんなの、口ごもったパワプロはそれ以上言葉を紡ぐことができなくなってしまった。猪狩の唇に吸い込まれてしまったからである。
戯れのように重なった唇はすぐに離れた。そのまま触れるほど近い距離で猪狩は続ける。
「たまにはね。素直になるのもいいものだよ」
「なんかオレ全然ついていけてないんだけど…」
「ハハ、だからキミは鈍くさいしモテないんだよ」
モテないは余計だろ、ぷりぷりと怒るパワプロに猪狩は笑っている。昔から変わらない、これが二人の距離だった。
「ところで、キミはさっきからなにをしているんだ」
「え?」
「勝手に服を脱がさないでくれるかい」
楽しそうにぷちぷちとボタンを外しているパワプロの手を制する。しかし、掴んだ手は逆に引き寄せられ、そのまま唇を押し付けられてしまった。にやりと笑ったパワプロは猪狩の耳元で囁く。
「だって、ちゃんと返事をしないと」
「返事って」
「オレがお前のこと好きかどうか」
「そんなまわりくどいことしなくても分かってるさ」
「いーや、お前は分かってないね、全然分かってない」
愛してるよ、猪狩
本日二度目のキスはあきれるほどに甘く、猪狩はうっとりと目を閉じながらたまにはこんな日も悪くないと考えていた。
―――――――――――――
ただのヤオイ 主守っていいですね
奇跡は起こすもの
主守
今日はパーティがあるからね。
そう言ってオレの電話を切った猪狩はやっぱりいつもの猪狩だった。
そういえばあいつ、今日でいくつになったんだっけ?
今日はクリスマス・イブ。そして猪狩の生まれた日である。
猪狩はオレの恋人だ。
そんな今日がめでたくなくて、一体いつがめでたいというのだろう!
などというルンルン気分でかけたオレの電話は、およそ数十秒で玉砕と散ることになってしまったわけだ。
今日はパーティだって、言ってなかったかい?
悪びれもせず言った猪狩は、少し早口で続けた。
クリスマスとボクの誕生日を兼ねて、この日は毎年パーティをするんだ。今日は一日家から出ることはないね。
じゃあ、またねと言って電話を切った猪狩は終始慌ただしそうであった。おそらくパーティの準備で忙しいのだろう。そりゃそうだ、主役がいなくちゃどうにもならない。
分かっていたことではあったが、嫌でも庶民の自分と猪狩との違いを実感させられてしまう。受話器に向かって溜息をついたところで猪狩の耳に届くことはない。
そのようなやり取りをしたのが、かれこれ何時間前の話だろうか。
今はもう、あと少しで日付が変わってしまうほどの深夜である。
往生際の悪いオレは、どうしても今日この日の猪狩との逢瀬を諦めきれなくて、猪狩邸まで出向いてしまったのだった。そしてそこであっさりと諦めた。
頑丈な鉄門で閉ざされたそこはまるで要塞である。いつ見てもでかい。為す術もなく、オレはすごすごと帰ってきた。今頃猪狩のやつときたら、美味いもんを食べてよく分からないダンスなんか踊ったりしてパーティを満喫しているに違いないのだ。こんな深夜まで?というツッコミは不在である。オレに金持ちのやることは分からない。
はあ~あ、と吐く息は白く、それは空中に少し留まってすぐに消えた。
早く帰ればいいのに、オレというやつはうだうだと深夜の公園で暇をつぶしているのであった。つい先ほど買ったばかりのホットコーヒーはあっという間に冷たくなってしまっていた。
ほんの少し遊具があるだけの小さな公園。
当たり前だが、こんな時間に他の人影はない。それでもオレがこんなところに居たがったのは、ここに猪狩との大切な思い出があるからだった。猪狩は恥ずかしがってこの話題を出されるのを嫌がるが、なんとここはオレと猪狩がファーストキッスを交わした場所なのである。
どうしてそんなことになったのかは忘れた。たぶん、またいつものようにくだらないことで喧嘩をしていたのだろう。ぎゃあぎゃあと言い争いをして、猪狩は珍しく涙ぐんでいた。その様子にぎょっとしたのをよく覚えている。
「そうだ、ブランコにも乗ったんだよな」
あの日のことを思い出して、オレはブランコに手をかけた。誰もいないのは分かっているのだが、一応辺りを見回して誰もいないのを確認してからブランコに乗る。
こぎ出すと意外に楽しく、ブランコはどんどんと高度を上げて勢いは増していった。
ああそうだ、猪狩はブランコに乗ったことがないと言っていたのだ。嘘だあというオレの言葉を遮って、猪狩は決意の形相でブランコに手をかけた。
「ナイス着地、と」
ポーンとブランコから飛び出して、オレは見事に着地を決めた。あの日の猪狩のように転んだりはしない。あの日、まさか転ぶとは思わなかったので、ぽかんと口を開けてオレは見入ってしまった。起き上がった猪狩はぶすっとした顔で「もう一回やる」と言ったのだった。そして今度こそ見事な着地を決めた。
負けず嫌いなオレたちは、それから阿呆のようにどれだけ遠くに飛べるのか勝負をしたのだった。
近いような遠いような不思議な記憶だ。まだそれほど前のこととも思えないし、その一方で随分と昔のことのようにも思える。
ブランコの次はジャングルジムに上ったオレは、遠い空を眺めてそっくり返った。
お世辞にも満点の星空とは言えず、いくつかの星がちらちらと瞬いているばかりだった。そういえば、お天気お姉さんが、今夜は雪が降るかもしれませんと言っていたことを思い出す。ホワイトクリスマスですねと言って笑った顔が印象的だった。もしそうだとしたら早く降ってきてくれないか。寂しいオレを慰める、そんな少しのサプライズがあったっていいだろう。
なんてったって、今日はクリスマス・イブ。そして猪狩の生まれた日。
いかにも何かが起きそうな、そんな予感。ちょっとくらい、奇跡が起こったっていいだろう。
オレはその少しの奇跡を信じて、この寒空の下で待っていたのだ。
だってほら、
「キミはほんとうにバカだな」
公園の入り口に誰かが立っていた。外灯の灯りが丁度逆光になっていて顔は見えなかったが、誰なのかは明白だった。
確かな足取りで近づいてくる。ジャングルジムの上から見下ろすと、その人が怒っていることだけはしっかりと確認できた。
「猪狩。来てくれたんだ」
「何が来てくれたんだ、だ。しらじらしい。あんなメールを送っておいて」
「えへへ、見ちゃった?」
「一体、何時間前からここにいたんだ」
降りて来い、と猪狩が怖い顔で言うのでオレはおとなしくジャングルジムから降りることにした。猪狩の隣に立って顔を覗き込むも、どうにもこうにも猪狩は怒っているようだった。
「パワプロ、ボクは朝言ったよな」
「うん」
「今日はパーティだからって」
「うん」
「明日会う約束もしてただろう」
「うん」
「それなのに、どうしてキミはこんなところにいるんだ」
凛々しい眉をぎゅーっと上げて猪狩の怒りは収まらないようだったので、オレは作戦を変更することにした。本当はもう少しロマンチックな雰囲気で渡したかったのだが、この際仕方ない。
ベンチに置きっぱなしになっていたプレゼントの包みをがさがさと取り出す。
「どうしても、今日お前に会いたかったんだよ」
「…」
「おめでとうも、言いそびれちゃったし」
「…」
「迷惑かけたのは謝るよ、ごめん。だから、これでちょっとは機嫌直して」
がさがさと取り出したのは、マフラーだった。派手な猪狩が好きそうなものを、そう思って色は赤にした。正直オレはどうかと思うが、黒や白より猪狩が明るい色を好むことをオレはよく知っていた。そして、明るい色は猪狩によく映えるのだ。
いかにも上等そうなコートを着ているが、首元が寒そうな猪狩にマフラーを渡す。
そのまま巻いてやろうと思うのだが、いかんせん手がかじかんで上手く巻いてやることができない。わたわたと何度もマフラーを掴むオレの手を、猪狩は制した。
ぐいと胸倉をつかまれる。間近で見た猪狩の瞳は燃えていた。
「プロの選手なら、体調管理をするのは当たり前のことだ。どうせキミは、ボクが来なければ朝まででもこんなところにいるんだろう。バカだ、ほんとうに。キミはもう少し自覚を持て」
「ご、ごめん。だけど、猪狩」
続く言葉は猪狩の唇に飲み込まれてしまった。熱い、猪狩の唇。少しだけ離れて、今度は確かめるようにゆっくりと重なった。
長い間外にいたせいでかさかさになってしまったオレの唇を、猪狩の舌がなぞるように触れていく。ちろちろと探るような動きがくすぐったい。それでも黙ったまま、されるがままにしていると、猪狩の舌はそのまま歯列を割ってオレの口内に侵入してきた。寒さから、奥の方で縮こまっていた舌を絡め取られる。深く侵入してくる猪狩の口付けは珍しいものだった。いつの間にか両手で顔を固定されていて、苦しくても逃げることができない。
唇を離す頃には、息苦しさと興奮がないまぜになって息が上がっていた。
「猪狩」
「こんなに冷えて、やっぱりバカだキミは」
「そればっかだな」
猪狩の背に腕を回すと、猪狩も黙ってオレの身体を抱きしめた。
そのまましばらく抱き合っていたが、急に我に返ったらしい猪狩はオレの腕からすり抜けて言った。
「ボクにはまだやらなくちゃいけないことがあるんだった」
「大変だな、主役は」
「全くだね、どこかのバカには振り回されるしね」
「相変わらず辛辣だな~」
出口に向かいながら、くるりと振り返った猪狩が言った。
「これ、キミにしてはセンスがいいね。気に入ったよ」
「そりゃ良かった。明日のデートでつけてきてよ」
「…フン」
「猪狩」
「なんだい」
「誕生日おめでとう。愛してるよ」
にっこり笑ってそう言うと、猪狩はほんの少し驚いた顔をして、もう過ぎてるけどねと言って今度こそ本当に帰ってしまった。
残されたオレは、一人携帯を取り出してディスプレイで時刻を確認する。
「ありゃ、ほんとうだ」
どうやら奇跡は、ほんの少し時間切れだったらしい。
ふふふと笑って猪狩が出て行った方向を見やる。そのまま空を見上げると、雪がちらちらと落ちてくるところだった。
唇をぺろりと舐める。明日は、今日のことでほんの少し猪狩をからかって、奇跡の続きを存分に楽しむことにしよう。
――――――――
守さん、ハッピーハッピーバースデイ!
おめでたすぎて逆にどうしたらいいのか分かりませんが、心の底から、おめでとう!
今日はパーティがあるからね。
そう言ってオレの電話を切った猪狩はやっぱりいつもの猪狩だった。
そういえばあいつ、今日でいくつになったんだっけ?
今日はクリスマス・イブ。そして猪狩の生まれた日である。
猪狩はオレの恋人だ。
そんな今日がめでたくなくて、一体いつがめでたいというのだろう!
などというルンルン気分でかけたオレの電話は、およそ数十秒で玉砕と散ることになってしまったわけだ。
今日はパーティだって、言ってなかったかい?
悪びれもせず言った猪狩は、少し早口で続けた。
クリスマスとボクの誕生日を兼ねて、この日は毎年パーティをするんだ。今日は一日家から出ることはないね。
じゃあ、またねと言って電話を切った猪狩は終始慌ただしそうであった。おそらくパーティの準備で忙しいのだろう。そりゃそうだ、主役がいなくちゃどうにもならない。
分かっていたことではあったが、嫌でも庶民の自分と猪狩との違いを実感させられてしまう。受話器に向かって溜息をついたところで猪狩の耳に届くことはない。
そのようなやり取りをしたのが、かれこれ何時間前の話だろうか。
今はもう、あと少しで日付が変わってしまうほどの深夜である。
往生際の悪いオレは、どうしても今日この日の猪狩との逢瀬を諦めきれなくて、猪狩邸まで出向いてしまったのだった。そしてそこであっさりと諦めた。
頑丈な鉄門で閉ざされたそこはまるで要塞である。いつ見てもでかい。為す術もなく、オレはすごすごと帰ってきた。今頃猪狩のやつときたら、美味いもんを食べてよく分からないダンスなんか踊ったりしてパーティを満喫しているに違いないのだ。こんな深夜まで?というツッコミは不在である。オレに金持ちのやることは分からない。
はあ~あ、と吐く息は白く、それは空中に少し留まってすぐに消えた。
早く帰ればいいのに、オレというやつはうだうだと深夜の公園で暇をつぶしているのであった。つい先ほど買ったばかりのホットコーヒーはあっという間に冷たくなってしまっていた。
ほんの少し遊具があるだけの小さな公園。
当たり前だが、こんな時間に他の人影はない。それでもオレがこんなところに居たがったのは、ここに猪狩との大切な思い出があるからだった。猪狩は恥ずかしがってこの話題を出されるのを嫌がるが、なんとここはオレと猪狩がファーストキッスを交わした場所なのである。
どうしてそんなことになったのかは忘れた。たぶん、またいつものようにくだらないことで喧嘩をしていたのだろう。ぎゃあぎゃあと言い争いをして、猪狩は珍しく涙ぐんでいた。その様子にぎょっとしたのをよく覚えている。
「そうだ、ブランコにも乗ったんだよな」
あの日のことを思い出して、オレはブランコに手をかけた。誰もいないのは分かっているのだが、一応辺りを見回して誰もいないのを確認してからブランコに乗る。
こぎ出すと意外に楽しく、ブランコはどんどんと高度を上げて勢いは増していった。
ああそうだ、猪狩はブランコに乗ったことがないと言っていたのだ。嘘だあというオレの言葉を遮って、猪狩は決意の形相でブランコに手をかけた。
「ナイス着地、と」
ポーンとブランコから飛び出して、オレは見事に着地を決めた。あの日の猪狩のように転んだりはしない。あの日、まさか転ぶとは思わなかったので、ぽかんと口を開けてオレは見入ってしまった。起き上がった猪狩はぶすっとした顔で「もう一回やる」と言ったのだった。そして今度こそ見事な着地を決めた。
負けず嫌いなオレたちは、それから阿呆のようにどれだけ遠くに飛べるのか勝負をしたのだった。
近いような遠いような不思議な記憶だ。まだそれほど前のこととも思えないし、その一方で随分と昔のことのようにも思える。
ブランコの次はジャングルジムに上ったオレは、遠い空を眺めてそっくり返った。
お世辞にも満点の星空とは言えず、いくつかの星がちらちらと瞬いているばかりだった。そういえば、お天気お姉さんが、今夜は雪が降るかもしれませんと言っていたことを思い出す。ホワイトクリスマスですねと言って笑った顔が印象的だった。もしそうだとしたら早く降ってきてくれないか。寂しいオレを慰める、そんな少しのサプライズがあったっていいだろう。
なんてったって、今日はクリスマス・イブ。そして猪狩の生まれた日。
いかにも何かが起きそうな、そんな予感。ちょっとくらい、奇跡が起こったっていいだろう。
オレはその少しの奇跡を信じて、この寒空の下で待っていたのだ。
だってほら、
「キミはほんとうにバカだな」
公園の入り口に誰かが立っていた。外灯の灯りが丁度逆光になっていて顔は見えなかったが、誰なのかは明白だった。
確かな足取りで近づいてくる。ジャングルジムの上から見下ろすと、その人が怒っていることだけはしっかりと確認できた。
「猪狩。来てくれたんだ」
「何が来てくれたんだ、だ。しらじらしい。あんなメールを送っておいて」
「えへへ、見ちゃった?」
「一体、何時間前からここにいたんだ」
降りて来い、と猪狩が怖い顔で言うのでオレはおとなしくジャングルジムから降りることにした。猪狩の隣に立って顔を覗き込むも、どうにもこうにも猪狩は怒っているようだった。
「パワプロ、ボクは朝言ったよな」
「うん」
「今日はパーティだからって」
「うん」
「明日会う約束もしてただろう」
「うん」
「それなのに、どうしてキミはこんなところにいるんだ」
凛々しい眉をぎゅーっと上げて猪狩の怒りは収まらないようだったので、オレは作戦を変更することにした。本当はもう少しロマンチックな雰囲気で渡したかったのだが、この際仕方ない。
ベンチに置きっぱなしになっていたプレゼントの包みをがさがさと取り出す。
「どうしても、今日お前に会いたかったんだよ」
「…」
「おめでとうも、言いそびれちゃったし」
「…」
「迷惑かけたのは謝るよ、ごめん。だから、これでちょっとは機嫌直して」
がさがさと取り出したのは、マフラーだった。派手な猪狩が好きそうなものを、そう思って色は赤にした。正直オレはどうかと思うが、黒や白より猪狩が明るい色を好むことをオレはよく知っていた。そして、明るい色は猪狩によく映えるのだ。
いかにも上等そうなコートを着ているが、首元が寒そうな猪狩にマフラーを渡す。
そのまま巻いてやろうと思うのだが、いかんせん手がかじかんで上手く巻いてやることができない。わたわたと何度もマフラーを掴むオレの手を、猪狩は制した。
ぐいと胸倉をつかまれる。間近で見た猪狩の瞳は燃えていた。
「プロの選手なら、体調管理をするのは当たり前のことだ。どうせキミは、ボクが来なければ朝まででもこんなところにいるんだろう。バカだ、ほんとうに。キミはもう少し自覚を持て」
「ご、ごめん。だけど、猪狩」
続く言葉は猪狩の唇に飲み込まれてしまった。熱い、猪狩の唇。少しだけ離れて、今度は確かめるようにゆっくりと重なった。
長い間外にいたせいでかさかさになってしまったオレの唇を、猪狩の舌がなぞるように触れていく。ちろちろと探るような動きがくすぐったい。それでも黙ったまま、されるがままにしていると、猪狩の舌はそのまま歯列を割ってオレの口内に侵入してきた。寒さから、奥の方で縮こまっていた舌を絡め取られる。深く侵入してくる猪狩の口付けは珍しいものだった。いつの間にか両手で顔を固定されていて、苦しくても逃げることができない。
唇を離す頃には、息苦しさと興奮がないまぜになって息が上がっていた。
「猪狩」
「こんなに冷えて、やっぱりバカだキミは」
「そればっかだな」
猪狩の背に腕を回すと、猪狩も黙ってオレの身体を抱きしめた。
そのまましばらく抱き合っていたが、急に我に返ったらしい猪狩はオレの腕からすり抜けて言った。
「ボクにはまだやらなくちゃいけないことがあるんだった」
「大変だな、主役は」
「全くだね、どこかのバカには振り回されるしね」
「相変わらず辛辣だな~」
出口に向かいながら、くるりと振り返った猪狩が言った。
「これ、キミにしてはセンスがいいね。気に入ったよ」
「そりゃ良かった。明日のデートでつけてきてよ」
「…フン」
「猪狩」
「なんだい」
「誕生日おめでとう。愛してるよ」
にっこり笑ってそう言うと、猪狩はほんの少し驚いた顔をして、もう過ぎてるけどねと言って今度こそ本当に帰ってしまった。
残されたオレは、一人携帯を取り出してディスプレイで時刻を確認する。
「ありゃ、ほんとうだ」
どうやら奇跡は、ほんの少し時間切れだったらしい。
ふふふと笑って猪狩が出て行った方向を見やる。そのまま空を見上げると、雪がちらちらと落ちてくるところだった。
唇をぺろりと舐める。明日は、今日のことでほんの少し猪狩をからかって、奇跡の続きを存分に楽しむことにしよう。
――――――――
守さん、ハッピーハッピーバースデイ!
おめでたすぎて逆にどうしたらいいのか分かりませんが、心の底から、おめでとう!
ロールケーキは甘いもの
2011/主守
猪狩守は困っていた。机の上に置いた一枚の紙をにらみつけながら困っていた。
さあ、どうしようかと考えていたら時間はあっという間に夜更けである。
手に持った携帯電話を見つめながら猪狩は息を吐き出した。
ことの発端は今日の午後のことである。
気に入りのロールケーキを買いに行ったところまたパワプロと出くわした。
彼とここで会うのはこれで2回目となる。
本当はここへ来るたびにパワプロの顔を探していたのだが、そんなことはもちろん秘密である。
もしかしてまた会えるのではないかという期待が、今日は落胆ではなく喜びに変わった。
ともすれば緩みそうになる顔を叱咤して猪狩はいつも通りの澄ました表情を取り繕った。
「あ、猪狩」
「やあ、また会ったね」
「あれ、今日は進くんは一緒じゃないの?」
そういうパワプロも今日は一人である。
この前一緒にいたメガネをかけた、そうだ矢部とかいうやつはいないようだ。
それにしてもだ、いのいちばんに進のことを聞いてくるのは気に入らない。このボクを目の前にしておきながらなんという無礼だろう。
「べつに進と一緒じゃなくてもケーキは買えるさ」
「そりゃそうだけどさ。それにしてもわざわざこんなところまでしょっちゅう来て、お前って実は意外と暇なの?」
「そんなわけないだろう。今日は遠征のついでに寄ったのさ」
「よっぽどここのロールケーキが好きなんだな」
「ああ、まあね…」
ロールケーキとパワプロが、理由の同列に並ぶようになってしまったのはいつからだろう。
初めは、単純にここのロールケーキの味がどうしても忘れられなくて買いに来ていた。
他のロールケーキではダメなのだ、ここのパワロールでないと。
それが前回偶然パワプロと出くわしてから、ボクはここへ来るたびにパワプロの顔を探すようになっていた。
しかし、偶然というのはそう何度もあるものではない。
ケーキが食べたい。パワプロに会いたい。
そのどちらも真っ直ぐな欲求であることに変わりはなかったが、いつしかケーキとパワプロの順位が入れ替わっていたことは否定できない。
「今日はそれほど並んでなくて良かったよ」
にこにこしながらパワプロが言うので、ボクは前方の列を眺めているふりをしながらそうだなと返事をした。
それはパワプロの言う通りで、こんな日に限って行列はいつもの半分くらいなのであった。
これではすぐに順番が来て帰らなければならない。
「なあ猪狩」
「なんだい」
「ここまで買いに来るの大変じゃない?」
「まあ、それなりにね。でも、ついでに寄っているから、そうたいしたことじゃないよ」
「ふうん」
それきりパワプロは黙ってしまってボクも隣で口を閉ざした。
何を話せばいいのか分からない。そうこうしているうちにどんどん順番は迫ってきて、もうすぐボクたちの番だ。
また勝負をしようだとか、最近調子はどうだとか、言いたいことはたくさんあるはずなのに、どうしてかボクの口からそれらの言葉が紡がれることはないのだった。
沈黙に焦れる。
「ねえ猪狩」
「ん?」
「もし良かったらさ、買いにくるとき一声かけろよ」
「どういうことだ?」
「オレだってしょっちゅう暇ってわけじゃないから、毎回買いに来れるかどうかは分かんないけどさ。もし都合が空いてたらお前が遠征に来る日、ついでにお前の分も買っといてやるよ」
でもあんまり期待すんなよ、できるときだけだからな。そう言って笑うパワプロの顔を眺めながら、ボクはなんとも返答のしようがないのだった。
そんな話をしているうちにボクたちの順番がやってきて、ボクとパワプロはひとつずつケーキを買って列を後にした。
会計をしている間にもなんだかふわふわとした心持で、渡されたケーキの箱をうっかり取り落としそうになってしまった。
なにやってるんだよとパワプロが苦笑する。
「猪狩、メアド教えて」
「あ、ああ…」
「赤外線できる?それかQRコード?」
正直に言うと、ボクにはパワプロが何を言っているのかさっぱり分からなかった。
どうやらメールアドレスを交換する手段のようであるが、どのようにすればいいのか見当もつかない。
言葉に詰まるボクに、パワプロはどこから出したのか紙の切れ端を取り出して、何か書くもの持ってない?とボクに尋ねた。
いつも持ち歩いている小ぶりのボールペンを差し出すと、パワプロはさらさらと何かを書きつけてボクの手に持たせるのだった。
「それオレのメアドだからさ、お前からメールしといてよ」
「ああ、分かった…」
「あっ、やべー、母さんにお遣い頼まれてたんだった!」
じゃあ、またな!あっけにとられている間にパワプロの姿はなくなっていて、ボクの手の中には一枚の紙が握られているのだった。
くしゃくしゃになっている紙切れを指で伸ばす。
綺麗とも汚いとも言い難いただの走り書きだ。
そんな走り書きがどうしようもなく嬉しくて仕方のなかったボクは、人目もはばからずにっこり笑ってしまうのだった。
そういう経緯で手に入れた一枚の紙を前にして、猪狩は相変わらず唸っていた。
メールをする、それはいい。問題は文面になんと書くかである。
本文は空白のまま送ろうかとも思ったが、それではむこうにこちらが誰なのか伝わらない。
「猪狩守だ」と名乗るだけなのもおかしい気がする。
それではなんと書こう。今日は世話になったな?これからよろしく頼む?
どんな文面もしっくりこない。
だいたい、ボクたちはそんなことを言うような間柄だっただろうか。
考えれば考えるほどに分からなくなる。
自分らしくないことは重々承知していた。
ケーキを食べながら進にまで訝しがられてしまったし、兄さん最近ケーキを買う頻度が増えましたね、なんてことまで言われボクには黙ることしかできなかった。
一体なんと返答すればいいというのか。
ああ、今日はもう遅いから、明日にしよう。そうだそれがいい。
考えるのを放棄して、猪狩はくしゃくしゃの紙切れを丁寧に机の引き出しにしまった。
自分でもどうかしていると思いながら、それでも嬉しい気持ちだけはごまかしようがなくて、猪狩は軽い足取りでベッドへ向かうと早々に布団の中にもぐりこんだ。
朝起きたらメールをしよう。内容は、朝の挨拶くらいで十分だろう。
そう思ったら俄然気が楽になり、今日はいい夢が見られそうだと思いながら猪狩は目を閉じた。
その日はパワプロと一緒にケーキを食べる夢を見たが、朝起きたボクは夢の内容などなにひとつとして覚えていないのだった。
―――――――
2011のパワロールのイベントはかわいすぎないかということが言いたい
守さんお友達がいないからメアド交換の仕方とか知らなさそう…
進は兄がケーキを買いに行く理由について気が付いてるけどすっとぼけてる
そういう進がとってもツボですねー
主守だいすきです
猪狩守は困っていた。机の上に置いた一枚の紙をにらみつけながら困っていた。
さあ、どうしようかと考えていたら時間はあっという間に夜更けである。
手に持った携帯電話を見つめながら猪狩は息を吐き出した。
ことの発端は今日の午後のことである。
気に入りのロールケーキを買いに行ったところまたパワプロと出くわした。
彼とここで会うのはこれで2回目となる。
本当はここへ来るたびにパワプロの顔を探していたのだが、そんなことはもちろん秘密である。
もしかしてまた会えるのではないかという期待が、今日は落胆ではなく喜びに変わった。
ともすれば緩みそうになる顔を叱咤して猪狩はいつも通りの澄ました表情を取り繕った。
「あ、猪狩」
「やあ、また会ったね」
「あれ、今日は進くんは一緒じゃないの?」
そういうパワプロも今日は一人である。
この前一緒にいたメガネをかけた、そうだ矢部とかいうやつはいないようだ。
それにしてもだ、いのいちばんに進のことを聞いてくるのは気に入らない。このボクを目の前にしておきながらなんという無礼だろう。
「べつに進と一緒じゃなくてもケーキは買えるさ」
「そりゃそうだけどさ。それにしてもわざわざこんなところまでしょっちゅう来て、お前って実は意外と暇なの?」
「そんなわけないだろう。今日は遠征のついでに寄ったのさ」
「よっぽどここのロールケーキが好きなんだな」
「ああ、まあね…」
ロールケーキとパワプロが、理由の同列に並ぶようになってしまったのはいつからだろう。
初めは、単純にここのロールケーキの味がどうしても忘れられなくて買いに来ていた。
他のロールケーキではダメなのだ、ここのパワロールでないと。
それが前回偶然パワプロと出くわしてから、ボクはここへ来るたびにパワプロの顔を探すようになっていた。
しかし、偶然というのはそう何度もあるものではない。
ケーキが食べたい。パワプロに会いたい。
そのどちらも真っ直ぐな欲求であることに変わりはなかったが、いつしかケーキとパワプロの順位が入れ替わっていたことは否定できない。
「今日はそれほど並んでなくて良かったよ」
にこにこしながらパワプロが言うので、ボクは前方の列を眺めているふりをしながらそうだなと返事をした。
それはパワプロの言う通りで、こんな日に限って行列はいつもの半分くらいなのであった。
これではすぐに順番が来て帰らなければならない。
「なあ猪狩」
「なんだい」
「ここまで買いに来るの大変じゃない?」
「まあ、それなりにね。でも、ついでに寄っているから、そうたいしたことじゃないよ」
「ふうん」
それきりパワプロは黙ってしまってボクも隣で口を閉ざした。
何を話せばいいのか分からない。そうこうしているうちにどんどん順番は迫ってきて、もうすぐボクたちの番だ。
また勝負をしようだとか、最近調子はどうだとか、言いたいことはたくさんあるはずなのに、どうしてかボクの口からそれらの言葉が紡がれることはないのだった。
沈黙に焦れる。
「ねえ猪狩」
「ん?」
「もし良かったらさ、買いにくるとき一声かけろよ」
「どういうことだ?」
「オレだってしょっちゅう暇ってわけじゃないから、毎回買いに来れるかどうかは分かんないけどさ。もし都合が空いてたらお前が遠征に来る日、ついでにお前の分も買っといてやるよ」
でもあんまり期待すんなよ、できるときだけだからな。そう言って笑うパワプロの顔を眺めながら、ボクはなんとも返答のしようがないのだった。
そんな話をしているうちにボクたちの順番がやってきて、ボクとパワプロはひとつずつケーキを買って列を後にした。
会計をしている間にもなんだかふわふわとした心持で、渡されたケーキの箱をうっかり取り落としそうになってしまった。
なにやってるんだよとパワプロが苦笑する。
「猪狩、メアド教えて」
「あ、ああ…」
「赤外線できる?それかQRコード?」
正直に言うと、ボクにはパワプロが何を言っているのかさっぱり分からなかった。
どうやらメールアドレスを交換する手段のようであるが、どのようにすればいいのか見当もつかない。
言葉に詰まるボクに、パワプロはどこから出したのか紙の切れ端を取り出して、何か書くもの持ってない?とボクに尋ねた。
いつも持ち歩いている小ぶりのボールペンを差し出すと、パワプロはさらさらと何かを書きつけてボクの手に持たせるのだった。
「それオレのメアドだからさ、お前からメールしといてよ」
「ああ、分かった…」
「あっ、やべー、母さんにお遣い頼まれてたんだった!」
じゃあ、またな!あっけにとられている間にパワプロの姿はなくなっていて、ボクの手の中には一枚の紙が握られているのだった。
くしゃくしゃになっている紙切れを指で伸ばす。
綺麗とも汚いとも言い難いただの走り書きだ。
そんな走り書きがどうしようもなく嬉しくて仕方のなかったボクは、人目もはばからずにっこり笑ってしまうのだった。
そういう経緯で手に入れた一枚の紙を前にして、猪狩は相変わらず唸っていた。
メールをする、それはいい。問題は文面になんと書くかである。
本文は空白のまま送ろうかとも思ったが、それではむこうにこちらが誰なのか伝わらない。
「猪狩守だ」と名乗るだけなのもおかしい気がする。
それではなんと書こう。今日は世話になったな?これからよろしく頼む?
どんな文面もしっくりこない。
だいたい、ボクたちはそんなことを言うような間柄だっただろうか。
考えれば考えるほどに分からなくなる。
自分らしくないことは重々承知していた。
ケーキを食べながら進にまで訝しがられてしまったし、兄さん最近ケーキを買う頻度が増えましたね、なんてことまで言われボクには黙ることしかできなかった。
一体なんと返答すればいいというのか。
ああ、今日はもう遅いから、明日にしよう。そうだそれがいい。
考えるのを放棄して、猪狩はくしゃくしゃの紙切れを丁寧に机の引き出しにしまった。
自分でもどうかしていると思いながら、それでも嬉しい気持ちだけはごまかしようがなくて、猪狩は軽い足取りでベッドへ向かうと早々に布団の中にもぐりこんだ。
朝起きたらメールをしよう。内容は、朝の挨拶くらいで十分だろう。
そう思ったら俄然気が楽になり、今日はいい夢が見られそうだと思いながら猪狩は目を閉じた。
その日はパワプロと一緒にケーキを食べる夢を見たが、朝起きたボクは夢の内容などなにひとつとして覚えていないのだった。
―――――――
2011のパワロールのイベントはかわいすぎないかということが言いたい
守さんお友達がいないからメアド交換の仕方とか知らなさそう…
進は兄がケーキを買いに行く理由について気が付いてるけどすっとぼけてる
そういう進がとってもツボですねー
主守だいすきです

